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Vol.0220 「NZ・生活編」 〜5月12日 ママ・ティナ編〜

5月12日の朝、私達のニュージーランド移住申請に対し、想定していた中では最悪の所見が出たことを知らされましたが、その時点ではその日に大きな角を曲がったという発想はありませんでした。申請以降1年2ヶ月も音沙汰がなかったのですから、動きがあったという意味では特別な日かもしれませんが、遅かれ早かれそういう日が来るわけですから、それだけではいつまでも記憶される日にはならなかったと思います。

しかし、エージェントへのメールをしたため、慌てて子供の学校へ駆けつけ、全校生徒で溢れんばかりになったの講堂に入った瞬間、「今日は特別な日かも知れない」と感じました。中央には音響やコーラスの総指揮をとる音楽の先生が小さなブースを構え、子供たちは騒ぎたいのをなんとか自制しているようで、さざなみのようなざわめきが寄せては返していました。私は一番端の一番後ろにたった一つ残っていた椅子に、ありがたく腰掛けました。

昂ぶる気持ちを抑えながら主賓が現れるのを待っていると、右手に校長の姿が見え、その後ろに小柄で白いカジュアルシャツ姿の白人女性の姿がチラリと見えました。そのとたん堪えきれなくなった想いが、涙となって真っ直ぐに溢れ出てきました。「ママ・ティナがいる。目の前にいる。」 誰もがその胸に抱かれたくなるであろう豊満な身体をゆすりながら、身振り手振りで子供たちに語りかける、本物のママ・ティナ。そう思うだけで、蛇口をひねった水道のように途切れることなく涙が流れ、それは最後まで、1時間続きました。

彼女が経た、信じがたいほど過酷な子供時代。それを生き抜いて大人になった彼女を待ち受けていた、それ以上に辛い日々。貧困、暴力、病、飢え、蔑み、恐れ、強姦、身の危険、母親の死、父親の裏切り、初めての子との生き別れ。果ては存在そのものの否定。思いつく限りの不幸が次々と彼女を襲い、深い絶望は彼女の人生を奥深くまで蝕んでいきました。それにもかかわらず、彼女はブロンドに包まれた明るい太陽のような笑顔で、目の前に、子供たちの前にいるのです。その姿にただただ、手が合わさる想いでした。

ママ・ティナの本名はクリスティーナ・ノーブルといいます。1944年にアイルランドで生まれで、首都ダブリンでの子供時代は深刻なアルコール依存症だった父親のせいで家庭が崩壊、戦後の先進国の一角であることが信じがたいほどの極貧生活を強いられました。床板をはがして暖炉にくべ、市場で人が捨てるものを拾ってきては兄弟で分け合う日々でした。心身ともに疲れ果てた母親は"I'm dying"と言いながら、彼女が10歳の時に息を引き取ります。飢えと寒さの中、4人の幼子たちには死よりも惨い生が待ち受けていました。

行き場を失った4兄弟は別々の孤児院に収容されたものの、兄弟会いたさにママ・ティナは4年で脱走、ストリート・チルドレンとなります。自分で掘った穴に住み、草木の葉や段ボールまで口にするほど悲惨な日々を送ります。そんなある日、犯罪者のように捕まり、世間から隔離されたシスター達が圧倒的な権力を握る恐ろしいカトリック系矯正施設に収容されます。そこは人格、ひいては存在さえ否定されかねない、ある意味でストリートより辛い場所でした。朗らかで歌とダンスが得意だった彼女は、特に目の敵にされたのです。

しかし、彼女は耐え抜き、洗脳されることも、魂を抜かれることもなく、わずかばかりの支度金を手に再び"塀の外"に復帰します。ところが、喜びの再開を果たした実父にわずかな支度金さえ騙し取られ、再び無一文の宿無しに・・・。その後もすさまじい紆余曲折の後、やっと結婚するものの、つかんだ幸せもつかの間、絶え間ない貧困と家庭内暴力に身も心も荒むような日々が繰り返されます。そんな頃、今から30年以上前の1971年、戦火の中で逃げ惑う子供たちが両手を差し伸べながら助けを求める啓示的な夢を見ます。

そこはベトナムでした。何の縁もなかった遠いかなたの国で、戦争の果てに自分のようなストリート・チルドレンが多数出ていることを夢で告げられるや否や、彼女は自分の人生の意義を確信します。それから自分の子供たちが独り立ちするまで20年近い歳月を待ち続け、とうとう1989年、彼女は初めてベトナムの地に降り立ちます。そして、群がってくる子供たちに囲まれた瞬間、自分の確信が正しかったことを悟るのです。

以来15年、ママ・ティナは一介の主婦から、世界を代表する慈善基金、クリスティーナ・ノーブル子供基金を率いる身となり、支援を受けた子供の数は14万人以上、活動拠点は厳寒のモンゴルにまで広がっています。私は彼女のことをかなり前から知っていましたが、何の支援もしないまま数年が経っていました。ところが2002年にNZを再訪した際、オークランド空港の本屋の店頭に、彼女の著書2冊が壁のように、どうあがいても見過ごせないようディスプレイされていたのです。これには観念しました。私は苦笑しながら2冊を買い求め、帰った後、ベトナム人の女の子の里親になりました。

(←2002年の旅はオークランドから南島の玄関クライストチャーチへ。1月なのに夜には9度という日もありました。)

「私達がNZに行けるかどうかなんて、彼女がやろうとしていることに比べたらどうでもいいこと。私達はどうやったって生きていけるけれど、支援がなければ失われてしまう小さな命がたくさんある。あぁ、ママ・ティナ、あなたの存在に感謝します。」 涙で霞む姿を遠くに拝みながらそう思えた瞬間、私の両肩からふっと何かが抜けていきました。(つづく)

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「マヨネーズ」 ママ・ティナは現在、乳がんを患っており、闘病中にもかかわらず積極的な活動を続けています。子供たちに自分の病を打ち明け、まるで遺言を託すかのように、「どんな子供も愛され、祝福されるべき」と語っていました。またお目にかかります、必ず。

西蘭みこと