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Vol.0210 「生活編」 〜Where We Were 最終回〜

ずっと考えていたことがあります。なぜ、私はこれほどまでに、映画「ラスト・サムライ」に感動したのかということです。「答えを探るよすがになれば・・・」と、この連載を始めてみましたが、掘り下げて考え、角度を変えて見ればみるほど、映画の迷宮にはまって行くばかりです。5月にはDVDが出るので、自分の中で一つの想念がゆっくりと醸造されてくるまで、それこそ飽きるほど繰り返し観てみようかと思います。
(←最後も一番好きだったスチールで。公式ホームページより)

現時点で考えられる最大の理由としては、これがハリウッド映画で、日本を外から見る視点で作られた作品だった、ということが言えます。私自身、日本を出て20年。日本人であることをずっと誇りに思ってきましたが、日本という国からは遠くなるばかりです。ですから、映画の視線にとても感情移入し易かったのだと思います。日本の作品であれば、日本人同士としての"暗黙の了解"を期待され、わかっているようで実は知らない"武士道"を素通りしてしまうところでしたが、ここではイロハから知ることができました。また、頭が下がるほどの時代考証を経て、普通の時代劇にありがちな安易な定石に頼らず、当時の日本に実在した高度なセンスを基に一から映画を構築していたところにも感銘を受けました。

3つ目の理由として、会話の半分以上が英語だったことも挙げられます。香港上映分には日本語字幕はなく、最後の侍の長、勝元(渡辺謙)とアメリカからやってきた傭兵、オールグレン大尉(トム・クルーズ)の会話を、私は英語のみで理解しました。日本語を通じ訳者という第三者の恣意を介することがなかったことは、むしろ幸いでした。例えば東京で蟄居に処された勝元が仲間と村に逃げ帰るシーンで、オールグレンが"Would you like to take your life?"と尋ねる場面があります(like toがなかったかもしれません。DVDで確かめます)。

名誉を突き詰めるのであれば切腹してもおかしくない状況でした。敵は実際、それを期待していました。オールグレンの問いは額面通りであれば、「命を絶ちたいか?」となります。しかし、公式ガイドブックによれば、「だから腹を切るのか?」という訳になっています。この一言は勝元の自決後、オールグレンが遺品となった刀を携えて天皇に拝謁するシーンで(〜その7〜参照)、彼が敵か見方かを問われた際に繰り返されています。オールグレンは天皇に対し「死のご下命があれば」、"I'm glad to take my life."と忠誠を示すのです。ここでの訳は「喜んで命を絶ちます」となっていますが、私は"take one's life"という言葉の繰り返しの中にこそ、オールグレンに受け継がれた精神の片鱗を見ました。

話は反れますが、このシーンでは「一介のアメリカ人が天皇のために喜んで死ぬ?」と、鼻白んでしまった人も多かったかもしれません。しかし、「侍」の語源は元来、「さぶろう」(さぶらふ=「候ふ」、辞書には「侍ふ」という表記も!)で、「貴人の側で仕える」という意味だそうです。ですから「武士道」に生きる決意をしたオールグレンが天皇に忠誠を誓い、求められれば命をも絶たんとしたことに矛盾はありません。疑問があるとすれば、なぜ侍はここまでストイックに仕え、鍛えたのかということでしょう。私は武力という圧倒的な力を得た者が、禁欲と精神修養に勤しむことで、自らの力、ひいては存在そのものを正当化し、永くその地位を保持していこうとしていたのだと思います。久しくあるためには"奢れる者"であってはならなかったのです。

会話が英語であったもう一つの利点は、日本人同士ではあり得ない、殿と呼ばれた男との"タメ口"があっさり実現してしまう点です。封建社会にあって、例え本音では同輩であっても建前上は上下もしくは敵味方の関係しかなかった中で、いとも簡単に"対等な立場"となってしまいます。長年の腹心であった氏尾(真田広之)ですら「殿!」と呼んでいたのに、新参のオールグレンは「カツモト〜」と呼び捨てです。英語上はまったく問題ありませんが、日本人にとってこの二重構造は意義深いところです。本音と建前がはびこる日本の社会に、英語は"本音と対等"を引っ張り込んできました。

最後に、これが侍への敬愛を美化と呼んでもかまわないほどに理想化したフィクションであったことも大きな理由の一つでした。監督はアイバン・モリスの「高貴なる敗北:日本史の悲劇の英雄たち」で描かれた西郷隆盛の「美しくも悲劇的な生涯が、僕たちの架空の物語の出発点となりました」と語っています。一つの精神に殉じるピュアな人たちは大きなファンタジーの翼を与えられ、ユートピアを羽ばたき最後は昇華するように消えていきました。これが実話であれば史実が足かせになり、ここまで見事に散ることはできなかったでしょう。絵空事にこれほどのリアリティーを吹き込める映画という媒体に、何よりも魅せられたのかもしれません。彼らとの銀幕での再会を祈りつつ、この話の幕を閉じることにします。

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「マヨネーズ」 映画のシーンに偶然はありません。スクリーンを横切る野良猫すらも、選び抜かれた一匹を周到なタイミングで歩かせたものです。監督は欲しいカットが撮れるまで何回でも何時間でも、時には何日でもねばります。その意味では目にする銀幕上のすべてのものには何らかの意図があり、作り手の意向が込められたものなのです。しかし、私は映画に偶然はなくとも、奇跡はあると信じています。何百、何千という人々が一堂に会し無心になって作っているうちに、各人の想念が濃く熱くたれこめたセットにふと、信じられない光景が出現する瞬間。監督の意図をも軽々と越え、居合わせた人々に鳥肌が立つような瞬間。この映画にはそんなシーンがいくつもあったように思います。

実はこの他に、男と女と生と死、精巧なセットと衣裳、「乱」の製作者に観て欲しい合戦シーン(観た?)やニュージーランド撮影事情などあと4本ぐらい用意してましたが、DVD発売にかかるとエンドレスになるので、ここはひとまず、さいなら、さいなら、さいなら。

西蘭みこと