>"
  


Vol.0176 「NZ・生活編」 〜1000の風とひとつの家〜

今年の初めニュージーランド旅行に行った時、やたらに写真を撮っていたものが3つあります。香港では滅多にお目にかかれないような「巨木」、隣接する牧場や農場の塀代わりになっている「生垣」、そして「お墓」です。まだ人生の晩年を考える年でもありませんが、最近は折に触れてお墓のことを考えるようになっています。失笑を買うかもしれませんが、これもNZ移住に結びついているのです。自分の意志で人生を仕切り直すわけですから、それが終わった後の見通しにも修正が出て来たというところでしょうか? とは言っても、私には「死んだらどこに納まるか」ということに関し、はっきりとしたビジョンがあったためしがないので、修正ではなく一から考え始めたと言う方が正確かもしれません。

子供の頃の私にとって、お墓は非常にうっとうしい存在でした。「今度の日曜日は墓参りに行く」と両親から告げられると、それだけで気が重くなったものです。小さな子供が会ったこともない先祖を敬うこと自体難しい上に、子供ながらにも、次男だった父に対し亡くなった長男の代行として、私にはその長女として毎月の墓参を求める雰囲気があったのを察していたのかもしれません。ともあれ、見渡す限り同じような墓石が規律正しくびっしり並ぶだけの「○×霊園」などという場所が、子供にとって楽しい訳はありません。「死んでまでこんなところに来たくない」というのが、正直な想いでした。

大人になると、「墓なんか要らない。中国の為政者じゃないけど、死んだら遺灰を山河に撒いて欲しい」と思うようになりました。自分の子供に親の墓参りを課すようなことはしたくなかったので、「墓がなければお参りも要らない」と思ったのですが、根底には「死んでまで何かを残したくない」というもっと刹那的な気持ちがありました。ところが実際に結婚して子供を持ってみると考えが変わってきました。特に敬愛する義父を失ってからは、「やっぱり墓は必要かもしれない」と思い始めたのです。映画「マディソン郡の橋」で、主人公の二人が死んだ後に思い出の橋から遺灰を撒くよう遺言し、それぞれの願いがかなえられたのを見ても、「私もこれでいいや」とは思わなくなっているのに気がつきました。

それでも自分がどこの、どんな墓で眠るのかについては、ずっと空白のままでした。早々に決める理由もきっかけもなかったのですが、「こんなところに入りたい」と思うようなお墓を目にしたこともありませんでした。ところが、NZ旅行中に見たものは、思わず「私も入りたい♪」と思ってしまうような、素晴らしいものでした。まず、その立地。比較的起伏のある北島を旅していたこともあって、さんさんと陽光が降り注ぐ丘の中腹や緑なす牧場の一角に設えたお墓はまるで一等地の家のようでした。教会の前庭が墓地になっているのも数多く見ましたが、これも軒を連ねる街中の家のようです。

そして、そのたたずまい。思い思いの向きに、周りを花壇や手作りのフェンスで囲った意匠を凝らした造りに加え、なんとも明るく生き生きした存在なのです。向かい合ったり、放射状に広がったものなど、まるで丘の上でピクニックでも楽しんでいるかのようです。たくさんの生花が捧げられ、花が絶えることがないほど頻繁にお参りされていることもうかがえます。日本に比べればどこも小さな町なので、クルマで数十分も行けば墓参りができたり、教会ならば町の中心なのでもっと気軽に行けたりするという事情もありましょう。いずれにしてもお墓に象徴される死者の存在が、日常生活の中にグッと入り込んでいるのを感じます。それはまた、生前の絆の強さをうかがわせるものでもあり、家族観や宗教観で私が培ってきたものとの違いをいやが上にも思い知りました。

有名な作者不詳の詩「1000の風」は、こう詠っています。

私の墓石の前に立って 涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって 吹き抜けています。
私はダイアモンドのように 雪の上で輝いています。
私は陽の光になって 熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって 駆けあがり
鳥たちを 空でくるくる舞わせています。
夜は星になり
私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んでないのです。

この詩が人の心を打つのは、失った愛しい人が風や陽光として身近なところで永遠の存在になっていると信じることで、絶望の中に一縷の希望を見出せるからかもしれません。しかし、今の私は夜空に瞬く星に帰らぬ人を見る以外に、もっと近くに故人を偲ぶものが欲しいと思うようになりました。「お墓は亡くなった人のためというより、残された人たちのためのものなのかもしれない」と思い始めたのです。そこに誰もいなくても、冷たい石の前で、白いペンキを塗っただけの十字架の前で、手を合わせ心の中で語りかけ、逝ってしまった人と自分とを一瞬なりともつないでみたいと思うようになったのです。もしも、夫や子供たちも私に対して同じ想いを抱いてくれるとするならば、私にも墓が必要です。陽が降り注ぐ、緑に囲まれた小さな一角。人生で手に入れたいものが一つ増えました。

***********************************************************************************

「マヨネーズ」 「遺灰を空から撒くのってけっこうカネかかるんだよな〜。船からでもいい?」現実的な夫はかつての私の夢に、いつもこう応えていたものでした。今や死んでからも"庭付き一戸建て"を夢見るようになった私に対し、自分は東京にある先祖からの墓に両親とともに入ると言っています。いずれは彼の兄弟たちも入ってくるのでしょうが、私の終の棲家にはならなそうです。となると、死んでからは"別居"になるのかもしれません。ちょっと寂しいですが、たまには「1000の風」になって逢いに行きましょうかね。

西蘭みこと