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Vol.0120 「香港編」 〜不思議の国のランチ〜

まだ新型肺炎(SARS)の影も形もなかった去年のある日。昼休みに用事で上環(ションワン)に行かなくてはならなくなりました。地下鉄で行けば働いていた中環(セントラル)から一駅の距離で、いつもはトラム(路面電車)で行っていましたが、その日に限って「バスの方が速いかも」と、そっち方面に行く適当なバスに飛び乗りました。「途中どこかで降りればいいや」と軽く考えていたものの、バスは突然、高速道路に入り、猛スピードで湾岸道路を突っ走り始めました。降りたかった場所を高架橋の下に虚しく望みながら、「どこに着くんだろう?これじゃ、タクシーで戻らないと・・・」と、恨めしく眺めた車窓の外は、直視できないほどピーカンのお天気でした。

高速を出た最初のバス停で降りてみると、そこはもうケネディー・タウン。上環の更に先の典型的な下町で、昔は香港経済の中心だった時期もあるほど栄えた街ですが、私にとっては小さい店が鈴なりになったワンダーランドでした。一方通行でタクシーが拾えない場所だったこともあって、とりあえず大通り方面と思われる方向に歩き出しました。昼休み時間だというのにOLや会社員風の人とはほとんどすれ違わず、長靴履きで荷物を搬送している人や工具を持って歩く人、建設現場の作業員風の数人連れなどが歩いています。車も心なしか、トラックが多いように見えます。

その時、ふと通りがかった潮州レストラン。外に張り出されたメニューの中に大好物の「蠣仔粥」(牡蠣粥)とあるのに目が止まり、迷子の身だと言うのにお腹が空いていたこともあってカーテンの下がったドアを押して店に入っていきました。中には四人がけテーブルが所狭しと並べられ、それがほぼ埋まっていました。ぱっと見で60〜70人ぐらいが昼食の真っ最中でした。案の定、端の二人がけの席での相席となり、目の前では電話会社の制服を着た修理工らしい男性が、料理を待つ間を惜しんで伝票の束に書き込みをしています。

しかし、四人テーブルはどこもワイワイガヤガヤ楽しそうで、昼食というより夕食のようなテンションです。ビール瓶が立っているテーブルも多数あります。料理は普段見慣れた皿より1.5倍はありそうな長さ40センチぐらいの楕円の大皿にてんこ盛りになっており、皿からはみ出さんばかりの大きな魚があんかけにされて、ごろりと横たわっていたりします。チャーハンに至っては棒倒しの砂山ばりの高さで、それを実際にテーブルについた数人であっという間に切り崩し、魚もピラニアにつつかれたように一瞬で頭と骨になっていきます。"平らげる"というのはこのことか、と妙に感心してしまう眺めでした。

昼間からビールを飲み、タバコをふかし、大声で話し、競馬新聞を眺め、仲間との話に腹を抱えて笑い、傍からみていても本当に楽しそうです。終ればみんなで楊枝をくわえて店を出て行きますが、すぐに同じような労働者風の何人かが入れ替わりに入ってきます。そこからタクシーで15分もかからない自分が働くセントラルでは、林立する無機質な高層ビルでの完全空調の中、人々は外の天気など知るよしもないままパソコンに向かって働いています。それに比べれば、なんて有機的で人間臭い空間でしょう。

何度見回しても女の一人客は私だけで、女性客そのものが10人いるかいないかの中、いかにもオフィスから来ましたといわんばかりの私のいでたちは、さぞや浮いていたことでしょう。でも私の心情はその場所にとても近いものでした。少し湿り気を帯びた、温かくもねちっこいアジアらしい空間を長い間好んできました。まとわりついてくるような喧騒や遠慮のない視線、なんとも言えない匂いをうっとうしいと思い始めたら耐えられないかもしれませんが、私にとっては台所の片隅のように気取りようのない場所であり、居心地いいものでした。

何と言っても、そこにいる人たちの笑顔はこちらが引き込まれてしまうほどカラリと明るいものでした。何を話しているのかわからないのに、目が合ったらもらい笑いしそうです。刻一刻と悪化していく雇用情勢の中、あらゆる労働者が萎縮しつつあるにもかかわらず、突き抜けた明るさでした。しかし、皮肉なことに彼らのような職業こそ最も厳しい雇用調整に直面しているのです。香港はこれだけデフレになっても、まだまだ世界主要都市の中では物価が高く労働賃金も割高なので、経済的に見れば、仕事が単純労働であればあるほど"競争力がない"と見なされてしまいます。

失業率が7%台であっても競争力がないとレッテルを張られても、そんなことはどこ吹く風。彼らは仲間と食事することを心底楽しみ、午後への活力を培っていました。働くことは本来、生きていく中でのほんの一部分に過ぎないのです。しかし、私たちはいかにそれに足をとられていることか。彼らの底抜けに明るい、芯の太い笑顔は生きることを心から楽しんでいることの投影のように思えました。頭でっかちの経済論理を鼻先で笑うような空間で、私はアツアツのお粥をすすりながら、テーブルの下の手に力をこめていました。

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「マヨネーズ」 けっきょく、迷子になった私はタクシーで上環に乗りつけました。こんなことなら最初からタクシーで行った方が良かったのかもしれませんが、美味しい牡蠣粥(本当に絶品。潮州料理ではぜひお試しを!)をすすり、通りがかりのベトナム食材店で乾燥グラスヌードルを通常一袋18香港ドルくらいなのを10香港ドルで3袋買い(この差額24香港ドルでタクシー代はチャラ。ついナンピン買いを入れてしまう哀しい株屋の性?)、なんだか得した気分でした。今回の日本滞在も1ヶ月半となり、24日にはWHO(世界保健機関)の香港・広東省への新型肺炎(SARS)による渡航延期勧告も解除され、安全宣言まであと一息となってくる中、香港への里心は募るばかり・・・。早く免許取らなくちゃ☆

西蘭みこと