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Vol.0044 「NZ編」 〜キスで終わる物語〜

"テムズで76歳の老人が74歳の老女殺人の罪で起訴された。オルガ・エミリー・ロウは昨朝7時45分に自宅で殺されているのを発見されたが、警察は彼女の死因を明らかにしていない。老人は本日、ハミルトン地方裁判所に出廷する・・・"。オルガ・ロウ殺人事件を伝える3月8日付け「ヘラルド・トリビューン」(インターネット版)の記事はわずか数行の地味なものでした。

それから5ヶ月たった8月4日の続報は詳細を伝える長いもので、この事件の全容が初めてわかりました。見出しは「キスで終わった妻殺し」。"殺人は簡単なことだった。レックス・アーサー・ロウは妻がこれ以上アルツハイマーに苦しむことに耐えられないと悟り、睡眠薬、木槌、枕を用意した"。"3月6日、妻をべッドに寝かせ、睡眠薬を飲ませ、眠りに落ちたところを小槌で殴り、枕を押し付けて息の根を止めた。そして、妻の額にキスし、「すぐにお前のところに行くよ」とささやいた"。

"ロウは1時間待って妻の死を確認した。妻が生き返った時に自分が既にこの世を去っているようなことがあってはならなかった。彼はナイフで手首を切り、死を待つ間に一人息子のジョンに遺書を書いた。「すまない。でも私はこれ以上耐えられなかった。オルガは日増しに悪くなっていくばかりだ。家を売って金を作ってくれ。そして我々を荼毘に付し密葬にしておくれ」。ロウは部屋を汚さないよう滴る血を集めるために、ベッドの脇にバケツを置いて眠りについた"。

しかし、夫は永久の眠りにつくことはできませんでした。血が凝固してしまったのです。明け方4時に目が覚めてしまったものの、すぐには警察に通報せず、夜明けを待ちました。これに対し夫は"彼らを起こしたくなかったのです。警察にできることは何もなかったわけですから"と語り、通報の際には「私は生き甲斐を失いました」と告げています。そのため妻は7時45分になって初めて死亡しているのを発見されたのです。

8月3日、オークランド高等裁判所はロウを殺人の罪で有罪としましたが、懲役が確定する8月30日まで引き続き息子の監督のもとで保釈の身とすると発表しました。弁護人は実刑をともなわない判決を求めています。というのもニュージーランドでは法律を見直しており、ロウは殺人罪が確定しながらも実刑を免れる初のケースになる可能性があるのだそうです。しかし、本人は自分に実刑判決が下りなかった場合、更なる殺人を誘発してしまうのではないかと懸念しています。「私は実刑になった方がいい。金のために同じことをしかねない奴らを誤解させてしまう」と語り、心の準備ができていることを打ち明けています。

夫婦は今から56年前の1946年にトゥルアのダンスホールで知り合い、64年にテムズに移りました。洋品店を営んでいた妻がある日、お客からアルツハイマーで苦しんでいる人の話を聞いたことを夫に語り、「もしも私がそうなったら自殺させて」と頼みました。夫はそれに同意し、もし自分が同じ目にあったら同じようにするよう妻に頼んだのでした。「それは心から真摯なものでした」と夫は回顧しています。

そんな妻の様子に変化が出てきたのは7年前でした。始めは魚のエサを庭に撒いたり、小切手を隠したりというほんの"馬鹿げた事"だったのですが、4、5年前にはアルツハイマーと診断され、皮肉なことにその病気を最も恐れていた妻こそが発症してしまったのです。夫は老人ホーム行きを嫌がる妻のため、家でたった一人で介護することを決めました。1年前からは病状が一段と重くなり、妻は夫すら判らなくなってしまいました。子供に戻っては両親を呼び求め、訳の分からないことを口走り、夜中に徘徊し始めました。

計画は実行の3週間前に決定されていたそうです。夫は妻がこの苦しみから逃れたがっていると分かっていました。"妻の変わり果てた姿を見るにつけ心が痛みました。彼女はあんなにも生き生きとした明るい性格で、私達は素晴らしい夫婦でした"。"今でも妻のことを思うと胸が張り裂けそうですが後悔はしていません。彼女は私の人生そのものでした。彼女の傍に居たかったのです。明日死んでも悔いはありません。ちゃんとすべきことができていれば、今、私はここにいないはずですから"。

日曜の朝、珍しく早起きしてしまい、パソコンを立ち上げた時、不意に飛び込んできたこの記事。家族がまだ寝静まっている中、一人読みながら思わず目頭が熱くなりました。妻への愛を淡々と語る夫に疑問も後悔もありません。これが無人島の二人だけの生活であれば、罪ですらないのでしょう。誰にも迷惑をかけず、妻の希望をかなえてあげた彼を、誰が「生の尊厳を踏みにじった」と責めることができるでしょうか。

ただし、一般社会の中で生きる身である以上、経緯はともあれ殺人は重罪で、あってはならず、罰せられなくてはならないのです。アーサー・ロウは社会人の一人としてその罰を甘んじて受けるつもりです。もう彼にとって自分が社会からどう裁かれるかということなど、どうでもいいことなのでしょう。世間の喧しい法制度へ論議も彼の耳には届かず、ただひたすら妻への尽きることのない思い抱きながら、深い哀しみの淵に一人静かに佇んでいるばかりなのでしょう。

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「マヨネーズ」  テムズに行ったことがあります。夏の午後の昼下がり人っ子一人見かけない、忘れ去られたような町でした。今でも使われているのかどうか判然としない無人駅や炭鉱学校、普通の家と変らない大きさの美術館もありました。かつての繁栄の跡が偲ばれるだけに、今の静かさがしみいるような一時でした。でも陽の光を浴びる端正な町並みに暗さはありませんでした。あの中のどこかの家で、ロウ夫婦はお互いを見つめあいながら暮らしていたはずです。

なぜか心惹かれる小さな家をいくつか見つけ、そのうち最も気に入ったものは売りに出ていました。置物のネコが飾り窓からこちらを見ている中、誰も出てこないのが分かっているせいか、心置きなく何枚も写真を取りました。車さえ通らない通りもレンズに収め、何の変哲もない町でフィルムを一本使ってしまい、夫にあきれられました。その時の印象が、「事件の舞台にはもってこいだな」というものだったのを今でも良く覚えています。

西蘭みこと