>"
  


Vol.0005 「NZ編」 〜NZの匠たち、その1〜

2月5日からの12日間のNZ南島の旅には、本来いろいろな思い入れがありました。しかし、夫が日記でもばらしてくれているように、私には元来"計画"という二文字が欠けているので(ついでに言えば "後悔"という文字もないのですが)、「あれをしよう」、「ここに行こう」と頭の中に描いても、ネットで調べる訳でもなし、ガイドブックをめくることすらしないので、結局たいしたことはできず、最終的に自分が見聞きしたもので結構満足してしまう質なのです。そのため「えぇ、○○に行ったのに□□を見ないで、△△を食べないで、××も買わないで帰ってきたの!」と人から驚かれても、一瞬「もったいないことをしたかな?」と思うくらいで、「ま、次に行った時にでも…」と次の瞬間にはもうケロリ。そもそも遂行すべく"計画"がないのでそれが達成されない"後悔"もないのです。

しかし、今回の旅行でこれだけは・・・と思っていたのが、「ガラス工房を訪ねよう!」ということでした。心当たりはたった1ヶ所で、昨年のNZ旅行の際にたまたま目にした南島のパンフレットにあった、手作りビーズや吹きガラスのある店でした。しかし、南島のどこだったかは、「クイーンズタウン」か「クライストチャーチ」しか記憶になく、これって日本で言えば「名古屋か、京都のどちらかにある店」と言うぐらい大雑把なことなのでしょうが、忙しさと生来の性格で事前に下調べもせずに旅立ちました。

現地に行ってから観光用のパンフレットを見てもそれらしい店は見つからず、クイーンズタウンではツーリストインフォメーションに出向きましたが、教えてもらったのはビーズ屋とガラス器も置いているギャラリーだけで、目指す店は見つかりませんでした。「やっぱりクライストチャーチだったのかな?」と、あまりがっかりもせず教えてもらった店でビーズを買ってそれなりに満足していました。ところがその翌日、町中を走っている時に、夫にしては珍しいのですが道を間違え小径に入ったとたん、「あ、ガラス屋がある!」というタカの声。慌てて外を見ると、車窓からでもその美しさがわかる、いくつも大皿を並べた棚が見え、すぐに車を飛び出しました。

そこはワークショップも兼ねた小さな店で、奥には大きな釜がドンと鎮座していました。白人女性のオーナー兼アーティストであるキャスリンが迎えてくれた店の名前は、「ガラスハウス」。私が捜していた店ではありませんでしたが、大柄な彼女の大ぶりな手からなる作品がずらりと並ぶ店でした。すべてがリサイクルの窓ガラスで作られた、どれも厚さが5ミリ以上はある厚手のもので、繊細なガラスのイメージを覆すような作品ばかりでした。四角いガラスの真中を四角く窪ませたオーソドックスな形の皿も彼女の手にかかると、淵に微妙なうねりが出て平板な感じが一気に表情のあるものとなっていました。お盆ほどもあるような丸い大皿も、ガラスの冷たく硬い透明さを何とも言えない温かみのある、まったりとした赤が包み、その中央には、はかない金箔が縦に走っているなどバランス感覚が絶妙でした。

いろいろ迷った挙句、壁画の絵のように形式化された青い魚が描かれた25センチ四方の四角い皿を買うことにしました。その店ではこれは中皿です。厚い透明なガラスに何尾かの魚が右向きに描かれていて、どの場所でも底まで透けて見えるNZの海や湖の中の、魚影を覗くようです。陶器と見まごうようなぬくもりのある赤皿と対照的な、透明で涼やかな一品ですが、どちらも粗くならない厚さと大きさに繊細さが加わった作品で、この加減がキャスリンの真骨頂と見ました。持ったときの重ささえも計算に入っているかのような、ずっしりとした手ごたえもまた魅力です。

キャスリンは丁寧に作品の説明をしてくれ、色合いや焼き時間の話をし、素材の窓ガラスも見せてもらいました。自分の作品への誇りと愛着が心地よくこちらにも通じてくるのは、彼女が独り善がりにならず、作品に対して対価を払う人を客人としてもてなし、かといっておもねるところが全くなかったからかもしれません。均一な色の美しさを誉めると、表情も変えずに「経験です」と言い切りました。文字にしてしまえば尊大にも聞こえるかもしれませんが、それはガラス工芸をかじっていると話した私に対する、先輩としての励ましのように響きました。

他の二人連れが店に入ってきたところで名残惜しく退散しました。店内には大人四人が立てる余裕がなかったからです。外にディスプレーされた作品も、夏の朝の陽を受けて、自らも光を放つようにきらめいていました。車でも通り過ぎることができないような力が、道行く人に放たれているようでした。

昔パリに住んでいる時、フランス人の友人達はよく「彼はアールティザンだ」とか「これはアールティザンの仕事だ」というようなことを口にしていました。アールティスト(アーティスト)の域に達していない職人というようなニュアンスで、映画評でも何でもこれが出てきた時には誉めていないと理解すべきでした。しかし、私はそのアールティザンに密かに心引かれていました。天賦の才は与えられなかったかもしれないけれど、無から有を生じさせることができる、決して誰にでも備わっている訳ではない力を持った身近な人たち。

時にはアーティストへのコンプレックスで歪んでしまった人もいたかもしれないけれど、逆に「分かりやすいもの、実用的なものを…」と、最初から相手を念頭に置いた親しみ易い物の作り手とも言えます。意味の追求を拒み鑑賞することを迫るような"芸術作品"を生み出す人たちとは別なのです。求めれば手に入り、長く身近に置いて愛でていけるようなもの、心をこめて人に贈るようなものを作ってくれる人たちであるかもしれません。そうであればキャスリンは間違いなく、誇るべきアールティザンです。私は彼女のワークショップから持ち帰った青い魚のガラス皿を末永く大事にし、いつかこれを携えて再びNZに行くのでしょう。この皿にはこうして、思い出と言う名の記憶が幾重にも盛られていくことになります。これがアールティザンたち、匠の御技なのです。

***************************************************************************************

青い魚の皿が今、目の前にあります。本当に眺めて良し、持って良し、使って良しなのでしょうが、この皿を使うことはないでしょう。何も盛らずにこの厚い透明感を楽しみます。ガラスに引かれて以来、その華奢な繊細さ以上に、硬質な冷たさに魅力を感じていましたが、同じように好きな陶磁器のぬくもりが、硬い透明なガラスとこんなに身近に共存できるのだと言うことをキャスリンに教えてもらい、漠然と習っていたガラス工芸に指針ができた思いでした。彼女に比べれば私は保育園レベルですが、「いつか…」と夢を見せてもらったことに心から感謝。今回の旅ではもう一人忘れられないアールティザンに会いましたが、彼の話はまたこの次にでも。

西蘭みこと