「西蘭花通信」Vol.0721 スピリチュアル編 〜50代の宿題9:母娘〜         2016年3月5日

「やっと会えた。」
と思った人は、小さな棺の中でした。73歳の友人でありボランティア仲間であるケイトの母親はその5日前、2015年5月に95歳で亡くなりました。娘が4人、孫が24人、曾孫が確か7、8人、玄孫が2人という大家族の長でした。晩年は老人ホームで過ごし認知症が進んでいたものの、身体はいたって健康で心身のギャップが気の毒なほどでした。最期は脳卒中で倒れ、10分で駆けつけたケイトですら間に合いませんでした。

私とケイトが知り合ってから7年の月日が流れていました。ケイトや私たちはオークランドの東側で暮らし、母親は西の端で長年1人暮らしを続けていました。認知症が出始めたため説得してホームに入れ、肩の荷が下りたところでケイトはボランティアに加わりました。彼女は天性の性格で、あっという間に仲間内のリーダーになっていきました。

私たちは親子ほど歳が違っても、英語の持つ気楽さや率直さ、お互いのさばけた性格で急速に親しくなっていきました。より正確に言えば、私がケイトを慕っていったというべきでしょう。私たちには年齢以外にも、共通するものはほとんどありません。しかし、私は彼女の多くのものに惹かれ、彼女の話に耳を傾けることが大きな楽しみでした。特に心惹かれたのが、彼女の母親オードリーとの話でした。

「母が一家の中心だったわ。父は物静かな人だった。先日も母と出かけた時に、『腰がもうちょっとよくなったら、あそこまで泳ぎたいわねぇ』と指差した先は、デボンポートよ!(注:ワイテマタ湾を挟んだ対岸)本人もう94歳で歩くのがやっとなのに。」 (Vol.0631 〜人生の春夏秋冬:賑やかな冬〜
と、ケイトが語っていたように、母親は彼女にそっくりでした。飛びぬけたユーモアのセンスと地に足の着いた強さ。ただし、身長だけは170cm以上あるケイトとは違い、晩年は一段と縮んで150cm台だったそうです。

1世紀近く生きた女傑は咽頭ガンになるまで長年タバコを吸い続け、晩酌を欠かさず、高台の家に住み、道路から家まで百段近くある急な階段を毎日のように上り下りし、頑丈な身体を持ち、野菜を作り花を愛で、子どもたちがどんなに拝み倒しても決して自動車の免許を取ろうとせず、母親の送迎がない娘4人は何キロも歩いて通学せざるをえませんでした。

ケイトは晩年の母親の世話を一手に引き受け、週2回はホームに会いに行き、うち1回はカフェに連れ出し、公園を散歩したりしていました。母親は自分が認知症であることを理解しており、「覚えていられない」と嘆きました。
「大丈夫よママ。何回でも同じことを話してあげるから。私の話なんてたいしたもんじゃないから、覚えてなくても平気よ。」
「そうね。あなたの話は昔からたいしたことなかったわ。」
と、逆にやりこめられたり(笑)

個性的で頑固ながら、正しいと思えばすぐに翻意できる柔軟性と聡明さを備え(長年拒否してきたホーム入居も、いざ認知症とわかるとケイトも驚くほどすぐに決断したそうです)、別の考えや新しい環境を受け入れようと努力し、記憶がまだらになってからも使える脳を頼りに必死で覚え考えようと努力する、自立した人でした。そして最後はボケなのか天然なのか、微妙なところでみんなを笑いの渦に引き込むのでした。

涙あり、笑いあり、ケンカあり、仲直りありの関係。それが何度も何度も繰り返されて深まっていく母娘の絆。仲直りできる自信があるからこそ派手なケンカもし、病気、別居、死別といった家族の危機にお互い肩を抱いて泣いても、最後は涙を流しながら一緒に笑っているような関係でした。彼女のお葬式も涙、笑い、笑い、涙、笑い、笑いの連続でした。
        
(亡くなる1、2ヶ月前。本当に愛らしい人でした→)

「これが母娘なのか!」
私は50歳を過ぎて、初めて母娘のリアルな関係というものを身近に知るところとなりました。移住仲間は親が本国におり、キウイの友人でも地方からオークランドに出てきていると、ここまで頻繁に親とのつながりがありません。ケイトたちの関係は私が生涯初めて詳しく知るところとなった、母と娘の関係だったのです。

私と母の間には、涙も笑いも、ケンカも仲直りもありません。あるのは義理と礼儀、我慢と沈黙です。涙や笑いを許す感情は、子どもの頃に捨ててしまいました。そういうものに翻弄されている余裕が、私にはありませんでした。母親が近くにいる時はただただ相手の出方を見つめ、機嫌がいいのか悪いのか、悪いなら自分のせいなのかそうではないのか、自分のせいならこの後どういう言動に出るのかをじっと見極め、少しでも母の怒りの火の粉が降りかからないよう、最大限の注意を払うばかりでした。

こんな私たちにケンカなどあろうはずがなく、仲直りなど悪い冗談でした。母は私が盾を突こうものなら、その後何年も、いえ一生涯でも私をなじる格好の理由を手に入れ、
「あの時あなたはああ言った」
「あなたはいつもそうだった」
と言い続けるので、私はどんなにケンカを売られても決して買うことはありませんでした。親の正義を信じていた幼い頃、正直に反論した後の苦い展開から私は身を守る方法を学んだのです。沈黙は金でした。

「ありがとう、オードリー。あちらに行ってもお元気で。」
今にもスクッと起き上がりそうな、ニヤッと笑ったままの口元を見つめながら、私は棺に花を手向けました。多くのことを私に教え、何よりもケイトを残してくれたオードリーは、まるで眠っているようで、愛らしく、祝福に満ちていました。

(不定期で続く)

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「マヨネーズ」

子どもの中でも一番面倒を見ていたケイトの誕生日を待っていたように、その数日後に亡くなったオードリー。1年近く前の話ですが、ふと思い出し書き留めました。心からご冥福をお祈りします。

西蘭みこと 

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