「西蘭花通信」Vol.0704 スピリチュアル編 〜50代の宿題6:塀〜             2014年8月3日

前々回配信した〜夢日記:里子と里親〜に出てきた、ヒデくんという9歳か10歳ぐらいのお子さんを預かることになった夢を見た、翌日か翌々日のことでした。就寝前に灯りを落とし、ヨガをしていました。なにとはなしに、
「なんであんな夢を見たんだろう?」
と思ったとたん、
「あれは私だ!」
という閃きと、
「あれはお前だ!」
という音声としてではなく、脳に直接送られてくるメッセージを同時に受け取り、びっくりしました。

これもまた6月に配信した〜夢日記:夢の中のうつつ うつつの中の夢〜で取り上げたように、自分では思いもつかないような突然の閃きは往々にして、「あの世」とか、この言葉に抵抗がある場合は、「異次元」とでも言うべき場所からのメッセージではないかと思っています。あの時に限っては、自分の閃きと送られてくるメッセージが重なるように同時に届き、閃きの出所をますます確信する経験になりました。

驚きつつもそのままヨガを続けていると、こんがらがった毛糸の一番硬いコブが取れてスルスルほぐれ、「ヒデくんは私」ということがすんなりと1本の糸になりました。7、8歳ぐらいまでの私にとり「養子に行く」というのは、それほど突拍子もない話ではありませんでした。子どもでは高くてのぞけない「塀の向こう側」、ぐらいの世界でした。見えないだけで、塀の向こうに別の生活があることは理解していました。

養子、養女、里子といった言葉すら知らない頃なので、私にとって塀の向こうは「もらわれっ子」の世界でした。小学校低学年がそんな世界を自ら思い描いたりはしないので、その存在を私に知らしめたのは母でした。
「あなたのような子は誰かにもらわれて、うんと苦労したらいい。」
いつが最初だったかはもはや思い出せませんが、こんな内容の話を何度となくされ、私は「もらわれっ子」という概念を知りました。

「継母なんてみんな意地悪で、もらわれっ子は苦労するんだから。そうしたら本当の親のありがたさがわかるわよ。」
というようなことを繰り返し言われました。私たち一家は私が4歳のときに現在でも両親が暮らす横浜の外れに引っ越していました。幼稚園、小学校と進むうち、母によるトイレや押入れへの閉じ込めという仕置きはさすがに終了していました。

今思えば、「もらわれっ子」は母の次なる仕置きの手段でした。大きくなった私を家の中で閉じ込めておく場所がなくなり、今度は家から追い出す方法に切り替えたのです。とは言っても、本当に養女に出すわけではなく、その可能性を示しながら恐怖心で私を支配しようとしていたようです。その年になっても母が何に対してそれほど立腹しているのか、どうしたら母の怒りが静まるのかわからないまま、私はただただ突然投げ掛けられる恐ろしい言葉に肝を冷やし、沈黙し、閉じ込めの時と同様、身の処し方を急速に学んでいきました。(閉じ込めの話は〜50代の宿題5:学習〜で)

親に置いていかれたヒデくんは泣き叫ぶでも、親の後を追うでもなく、立ちすくみ、照れ隠しのようにはにかんだ笑顔を浮かべて、自分の感情を隠したまま場を取り繕っていました。小さな身体を抱きしめると、棒のように真っ直ぐになり、目を見開き身を反らし、それでも笑顔を絶やしませんでした。

ヒデくんは私でした。閃きの通りです。とうとうのぞくことがなかった塀の向こう側を夢が見せてくれたのです。
「誰かにもらわれていたら、どうなっていただろう?」
というのは、決して答えが出ることのない長年の謎でした。塀のこちら側の苦しさから、向こう側に行く覚悟は漠然とできていました。
「行った先でもっと苦労するなら行きたくない。」
と現実的に思っていただけで、親や実家へのこだわりは、とうにありませんでした。

ヒデくんは里子として過ごした数ヶ月の中で自分を取り戻し、自ら、
「お母さんのところに帰りたい。」
と申し出ます。それは母が恋しくなったからでも、里子の生活に飽きたからでもなく、「どんな状況にあってもぐらつかない自分」と確立できたからなのです。その思考回路や結論があまりにも私のものそのもので、「ヒデくんは私」を確信しました。自分を捨てたも同然の親に未練はなくても、他人の世話になる必要もないと判断したのです。

ヒデくんを預かった「私」もまた私でした。実際には巡り合うことのなかった養母役を演じ、答えが出ることはないと思っていた長年の謎に答えを示したのです。例え養女に出されていても、私は私なりに必死に生き、考え、判断し、行動し、自分なりに正しいと思う方向に一生懸命進んで行ったことでしょう。「帰りたい」と言ったヒデくんのように――― あの一言は自分を取り戻した少年の勝利宣言でした。

「夢を通じて、自分が自分を癒している!」
これは驚きの発見でした。三つ子の魂百までもと言われるほど、深く負っていたと思われる魂の傷を、
「50年も経ってから自分で癒している!」
これはもう神の御業とでも呼ぶべき、人知を越えた経験でした。ヒデくんをわが子のように可愛がり、ヒデくんもまた心を開いて懐いてくれ、自分の身には起きなかった塀の向こうの側を経験することで、謎の答えを知ったのです。

大事なのは、「親が誰か」ではなく、「自分が誰か」ということでした。
(不定期でつづく)

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「マヨネーズ」

私はこうした複雑な事情もあって、非常に大人びた子どもでした。10歳ぐらいまでは同級生の大半が下級生のように感じられたものです。その感覚の差が7、8歳だった私を9、10歳のヒデくんが演じてくれたようです。

(今でも塀の向こう側は興味ある世界ですが、ついつい塀に見とれてしまうNZです→)


西蘭みこと 

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