「西蘭花通信」Vol.0700 生活編 〜遠くで汽笛を聞きながら〜              2014年7月6日

育った横浜の家は1kmも行かないところをJR線が走っていました。中学生になり夜更かしをするようになると、シーンとした住宅街にくぐもるような列車の音が響き、ホッとするような、慰められるような、勇気が湧いてくるような、なんともいえない前向きな気持ちになりました。それは確実にどこか遠くへ誘(いざな)ってくれる、希望の音でした。

大人になる日を、家を出る日をじっと待ち続けていたような子ども時代にあって、その音がどれだけ自分を励ますものであったのか、当時は理解していませんでした。ただ、耳にするたびに心の中に灯りが点るようで、いつか遠くへ去り、2度と戻ることがない自分を漠然と思い描いては、
「さぁ、寝るか。」
と夢路につきました。

徒歩圏内の地元の高校に進学した後、18歳で東京の大学に進み、19歳で自活のメドが立ったところで家を出ました。「家を出れば、横浜を出れば」と期待していたものの、東京での暮らしもピンと来るものではなく、22歳で大学を出ると同時にごく自然に日本を出ました。あれから30年の月日が流れました。

私は狩猟民族でした。より良い場所を求めて、荷物をまとめて次々と移動していくことに全く不便を覚えないどころか、「もっといい所」「もっといい環境」を絶えず求めていました。フランスやシンガポールのように、行ってはみたものの結果的に「失敗だった」と感じた場所もあります。けれど、失敗から学ぶことは多く、フランスは私の中にあるアジアへの深い想いを確信させ、シンガポールでは夫に出会って結婚し、猫たちを授かり、その後の香港転勤という切符を手にしました。

日本を出てちょうど20年の42歳のときに一家でNZに移住しました。キウイの友人の勧めでふらりと住み着いた場所は、これまた線路のすぐそばで日中は気づかなくても夜になると列車の音が聞こえてきます。線路は旅客と貨物の兼用なので、旅客のない夜はオークランド港を往復する貨物専用となり、深夜や明け方でも列車の音が聞こえます。貨物は十数量編成の長いものが多く、重いコンテナを運んでいるせいか、川に沿って谷を走り抜ける音がいつまでもいつまでも尾を引き、ことさら旅愁を誘います。

48歳の年のクリスマスに長年の糖尿病患いの末に愛猫チャッチャを亡くし、移住後ほとんど行くことがなかった旅行に6年ぶりに出るようになりました。それまでは猫の看病があったため私が居残り、夫と子どもの3人で出かけていました。NZでの旅行はほぼクルマです。車中の音楽は100%夫の選曲で、往年の懐かしい曲ばかりでした。私がほとんど聴いていなかった曲も数多くあり、特にアリスは夫が大ファン、私は完全にスルーでした。

アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」をしみじみ聴いたときには、その歌詞に愕然としました。
「暮らして行こう 遠くで汽笛を聞きながら 何もいいことがなかったこの街で?????」
「どうして?どうして?なんで何もいいことがなかった街で暮らし続けるの?どうしてどこかに行こうとしないの?」
思わず夫に詰め寄ってしまったほどでした。

所詮、歌は歌。感傷的なものも大事なわけで、そこに理屈や真実を求めること自体、無粋なことなのでしょう。何もいいことがなくてもそこに留まることは、我慢を重んじる日本人の心の琴線に触れるのかもしれません。けれど狩猟民族の私には全く響いてくるものがなく、メロディーの美しさとは裏腹に疑問と違和感が残るばかりでした。

オークランドの列車はこの10年で驚くほど本数が増え、耳を傾けずとも通勤時間はほのかなバックグラウンドとして、どこからともなく音がしてきます。今では徹夜も辞さなかったほどの仕事量から解放され、明け方に列車の音を聞くことも、運転手を始め昼夜なく働いている人たちに自分を重ね合わせて、ふと親近感を覚えるようなこともなくなりました。

(列車はずっとディーゼル車でしたが、年内にやっと電化され近く、電車になります^^;→)

家を出る日をじっと待ち続けていた頃から40年の歳月が過ぎ、私は心静かにあの頃の自分を思い返しています。勉強したり、深夜放送を聞いたり、本を読んだり、妹を起こさないように小さい音で音楽を聴いたりしていながらも、どれにも身が入っていたわけではなく、私はただただ自分が成長し、大人になるのを待っていました。

あの頃は自分を取り巻く複雑な環境や心境を自分でもよく理解できず、よくわからないものを説明する煩わしさから逃れたいこともあって、ひたすら1人でいることに小さな心の平安を見出していました。家族や友だちは眼中にあっても、心の中にはありませんでした。孤独ではあっても失望も絶望もしていませんでした。遠くで汽笛を聞きながら、12歳の私は深夜に1人俄然ヤル気になっていたのです。今の私は同じ音に幸せを噛みしめています。

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「マヨネーズ」

最近どんどん増える子どもの自殺の報道に接するたびに、親の1人として、悩み深き子どもだった身として、砂を噛むような思いです。いじめ、親のネグレクトや過干渉、さらにネット社会におけるデジタル村八分の恐ろしさたるや、私たち大人には想像もできないほど過酷な子ども時代を送っている「小さな人たち」がたくさんいるのでしょう。

子どもの世界は本当に小さく壊れやすく、あっという間に息苦しくなってしまいます。けれど忘れないで下さい。あなたたちは今この瞬間も成長しています。実感はなくても今の苦しみから1日また1日と遠ざかっており、問題と向き合うための知恵と体力を日々培っているのです。きっと現状から抜け出せる日が来ることでしょう。がんばって!

西蘭みこと 

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