「西蘭花通信」Vol.0682  香港編 〜辛い事があったら香港に来よう〜        2014年5月8日

「もうここに住むことはないだろうな。」
1年7ヶ月ぶりに訪れた香港で、夫は小さく呟きました。2年9ヶ月ぶりに訪れた私は微笑みながら黙っていました。「もう住むことはない」―― その覚悟は10年前にこの街を離れたときからできていました。もしも舞い戻るようなことがあったら、NZ移住が何らかの理由で立ち行かなくなったことを意味するからです。それは望むところではありませんでした。

けれど、私と違って何かと慎重な夫は、その可能性が限りなくゼロパーセントであっても、香港に戻る可能性を心の片隅で守り続け、今回の訪問で最後の可能性を手放したようでした。もう2度と住むことがなくても、私たちにとり香港が心のふるさとであることには変りありません。

子どもたちが生まれ、本当の意味で家族になった街
生涯の友を作り、懸命に働き、子育てに邁進した街
費やした努力がことごとく報われた魔法のような街
身を粉にした仕事も、降りかかる無理難題も、全てはその先にある次の段階への重要な過程であることが理解できた街
世界のどこにあっても生き延びていける、人生の王道を教えてくれた街

私が香港に出会ったのは、今からちょうど30年前の大学を卒業した1984年でした。卒業後1週間で台湾に飛び、日本語教師のアルバイトをしながら中国語を学んでいた時でした。夏休みを利用して大学時代の友人と東南アジアを1ヶ月近く旅行することにし、「とりあえず香港で落ち合おう」ということになりました。一足遅れの卒業旅行という訳です。

旅の目的地はシンガポール、マレーシア、タイで、香港は格安航空券を買うために立ち寄ったようなものでした。
「中国語(北京語のこと。香港は広東語)も通じないし、ゴチャゴチャしてそうだし、観光地もないし・・・・」
と、東南アジアでの時間をたっぷり取るために、香港は最短で切り上げるつもりでした。無事友人と落ち合い、彼女の知人に航空券の手配を託すと、発券に2、3日かかるという話でした。

私たちはその間、期せずして香港を観て回ることになりました。といってもどこで何をしていたのか、今となっては、滞在していた九龍半島側から対岸の香港島に渡ったのかすら記憶がありません。当時は中国人はもちろん、台湾人でさえ第三国経由でないと入境することができなかった時代なので、北京語を話すのは中国からの逃亡者か、海外華僑の末裔である華人かのどちらかで、中国語で話しかけるたびに怪訝そうな顔をされたものでした。

しかし、見るもの聞くもの全てが新鮮だった20代前半の私たちは怖いものなしでした。路地裏でも夜でも出歩き、警察官の姿にすっ飛んで逃げていくような怪しい屋台で食事や買い物をし、中国語で話しかけると広東語の返事が返ってくる状況に大笑いしながら、中国でも台湾でもない、初めての中華圏を縦横無尽に歩き回っていました。

「何なんだろう、ここは?」
歩き回るうちに、まるで地面に電流でも走っているような不思議な感覚を覚えました。コンクリートを通じて足の裏からエネルギーが這い上がって来るような、なんとも言えない感覚でした。夜ともなれば無数のネオンが点り、すぐ頭上に畳何畳もの大型のものが張り出しているという状況も珍しくなく、色とりどりのめくるめく光の中に佇むと、「自分に電流が流れていてもおかしくない」という気分になりました。

さらに腰の辺りから第二、第三の足がタコのように生えてきて、がっちりと大地に根を下ろし、足の数が増えた分、もっともっと大地からエネルギーが上って来るような感覚もありました。電流と感じたのは足の中を伝うものが、かすかな痺れに思えたからです。根を下ろしているのに歩ける、それどころか韋駄天のように天駆けることさえできそうな、何とも言えない力が身体の中に漲ってくるのを感じました。

今思えば、あれはグラウンディングだったのでしょう。当時の私はそんな言葉さえ知らず、湿度の高い、いろいろなものの匂いを含んだ、お世辞にもきれいとは言えない重い空気を胸いっぱい吸い込んでは、目を輝かせ、鼻息荒く、疲れも知らずに1日中動き回っていました。まるで香港という街が、無限の元気を吹き込んでくれていたかのようです。

私はあの時、
「働くなら香港で。」
と心に決めました。その2年半後、25歳となった私は予定通り遊学生活に終止符を打ち、本当に香港で働き始めました。日本人的な感覚で言えば、かなり遅い社会人デビューでしたが、自分で見つけた「世に出て行くのに理想の街」と思えた場所で就職できたことは、大きな喜びでした。
「水を得た魚とは私のことか!」
と笑ってしまうほど、私はすぐに香港に溶け込み、抱かれ、逞しく育ててもらいました。

「もうここに住むことはないだろうな」と呟く夫の横で、
「辛い事があったらここに来よう。」
と思っていました。この街に足を踏み入れれば、スイッチはすぐオンになる。昔ほどではないにしても、今でも電流は流れている。それが流れてくれば、私はきっと立ち直れる。本当に本当に辛い事があったら、香港に来よう―― ビルの谷間で生暖かい初夏の夜に佇みそう心に決める私を、色とりどりの巨大なネオンが温かく見下ろしていました。


(愛する香港。空気汚染と中国化が止まりませんが、またいつか→)

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「マヨネーズ」

17日間の香港・日本里帰り旅行から帰ってきました。香港を離れて10年ですが、愛と感謝はいまだに尽きることがなく、行く度に抱えきれないほどの元気をお土産にもらってきます。そんな香港に残された中国統一までの時間は、あと33年です。

西蘭みこと 

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