「西蘭花通信」Vol.0572   生活編 〜永漢日語教室〜                2012年5月19日

作家、実業家、経済評論家、経営コンサルタント、食通といくつもの肩書きを持ち、「金もうけの神様」の異名で知られる、台湾生まれの邱永漢氏が88歳で亡くなりました。訃報に接し、30年近く前の記憶が蘇ってきました。ほんの2年間とはいえ、私は氏が台湾で経営していた日本語学校に日本語教師として雇われていました。

28年前、大学卒業を待って3月末に台湾へ留学した私は、4月からの中国語の授業の申し込みに間に合いませんでした。5月からは通学できるものの、1ヶ月丸々空いてしまいました。大学1年の終わりに台湾に出会い、それ以降卒業するまで、夏休みと春休みを利用して年に2回、毎年通算2ヵ月以上滞在してきたので、今さら旅行で地方を回る気にもなれませんでした。
「アルバイトをしよう。」
と思った矢先、大学の先輩だった台湾人が、
「邱永漢が中山北路で日本語学校を始めて、先生を募集してるよ。」
と教えてくれました。

中山北路という古くからの目抜き通りにできた大規模な永漢日語教室は、周囲にいくつもある他の日本語学校に比べ、資本力の違いが一目瞭然でした。これを「語学学校」というのであれば、既存のものは「塾」でした。確か日本人の教務主任と日本語が堪能な台湾人に面接を受けたように記憶しています。当時の私は留学したてでも、日常会話に困らない程度の中国語を話すことができました。彼らはその点を非常に買ってくれました。

私も含め教師に応募してきた日本人のほとんどが留学生だったため、中国語の初心者が多く、全く中国語を使わない上級クラスで会話の相手をするか、初級クラスで「あいうえお」を教えるかのどちらかしかなく、敬語だの文法だの授業内容が最も複雑になる中級クラスを、中国語を交えて教える人が不足していました。採用が決まり、オシャレな通りとして急速に人気を集めていた忠孝東路の新校舎で教壇に立つことになり、私は中国語を習うより早く、日本語を教えることになりました。

当時の台湾では日本語を習うことがファッションの一つで、日本語を介して日本の流行をいち早く知り、日本のテレビ番組(当時は海賊版ダビングテープが一大市場を形成していました)を中国語訳なしで観るというのがトレンドだったので、集まってくる生徒は私と同年代の若者がほとんどでした。

みこと先生はけっこう人気がありました。なにせ生徒と同年代、ジョークを飛ばしながら、日本語と一緒に日本の流行を教えてくれ、なにより中国語で教えてくれるネイティブ!という点が好評でした。学校側は教師に対し「できる限り中国語を使わず日本語だけで教える」ことを要求していましたが、それは現地の素人教師を束ねる日本から派遣されたプロの日本語教師たちが中国語を話さない、という事情もあったようです。

しかし、教室に入ってしまえばこっちのもの。初回の授業で初対面の生徒たちに、
「教室では中国語を話すなって言われてるから、私がうっかり中国語を話しても学校には黙っていてね。留学に来たばかりで、ここで首になったら困るのよ。」
と中国語で説明すると、教室はどっと笑いの渦に包まれ、
「言わない!」
「言っちゃう!」
「私の日本語が伸びなかった言いつけようっと!」
と、生徒たちが一斉に反応し、一気に打ち解けたものでした。

学校は小奇麗でも、教室の間は薄いベニア板で仕切られたも同然だったので、隣の教室で話していることまでは聞こえなくても、笑い声、ラジカセを持ち込んでカラオケで歌っている声などは筒抜けでした。よく隣になった同僚の先生から、
「何度何度も笑い声が聞こえたけど、何を教えていたの?」
と聞かれ、
「あいうえお。」
と答えて、驚かれたものです。

永漢日語教室が素晴らしかったのは、授業のない毎週土曜日の午前中に教師を集め、日本語の教え方を伝授し、素人教師の質を短期間に高めたことでした。今と違って日本語教師の育成機関がないに等しい時代で、特に海外とあっては経験者からノウハウを学ぶのが一番手っ取り早い方法でした。そこで初級から中級までの教え方を学んだ私は、空いた時間に日本語の家庭教師を始めました。最初の生徒は親の言いつけで習い始めた高校生でした。

生徒が増え、2年目はエグゼクティブ専任になり会社の社長や役員など、授業料が経費で落とせるビジネスマンだけに教えるようになりました。これは偶然の結果でした。人の紹介で日本と取引のある会社社長への個人教授を頼まれたとき、忙しさのあまり断るつもりで、紹介した人の顔を潰さないよう1回5000円という破格の授業料と「当日キャンセルは授業料100%を申し受ける」という厳しい条件を吹っかけ、相手が断るように仕向けました。ところがその社長はひとつ返事で快諾し、教え始めると社長仲間を紹介してくれました。

永漢日語教室の時給が250台湾ドル(約1600円)だったところ、エグゼクティブからの報酬は1回1時間半5000円だったので2倍でした。彼らに突然出張が入ったり、来客があったりしようものなら丸儲け(笑)、なにもせずに5000円が転がり込んできて、翌年のフランス留学資金がどんどん貯まっていきました。これも「永漢日語教室の教師」という肩書きと、日本語の教え方を習ったことによるところが大きく、今でも感謝しています。

氏のご冥福をお祈りいたします。

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「マヨネーズ」
日本が私を生んだ「生みの親」、香港が私を育て鍛えた「育ての親」だとすると、学生に産毛が生えたような私を受け入れ、守り、許し、その懐に抱(いだ)き、決して拒むことがなかったばかりか、常に甘やかしてくれた台湾は「祖父母」だったと思います。

(台湾を認知している国は今やほとんどないので、台湾以外ではまず見ることのない台湾旗。これがどこの国の旗かわかる人も少ないことでしょう。台北桃園空港にて→)

西蘭みこと 

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