「西蘭花通信」Vol.0539   生活編   〜沖縄行きの列車〜              2011年5月18日

東京や新宿など大きなターミナル駅に立つたびに、海外ではなかなかお目にかかれないプラットホームの多さ、そこに滑り込んでくる色鮮やかな列車の数、乗り降りする人の波に圧倒されます。特に学生時代に一時期利用していた品川駅はホームがずらりと横に並んで電車の出入りが一目瞭然なため、思わず見入ってしまいそうです。

たくさんの列車が行き交い、その1台1台に迷うことなく乗り込む大勢の人たち。同じぐらいの人がホームに吐き出され、散っていきます。1人1人に行くべき場所があり、目的地に向かって黙々と急ぐ人たち。同じ場所に向かう列車でも出発時間が違い、同じ列車に乗り合わせても降りる駅が違います。降りる駅から乗り込んでくる人もいます。

いつの頃からか「人生とは列車の旅のようなものだ」と思うようになりました。誰もが自分の決めた列車に乗り、どこかに向かっています。鈍行に乗って車窓の風景を楽しむ人もいれば、頻繁に乗り換えて「もっといい目的地」「もっといい乗り心地」を目指す人もいます。最初から急行列車で先を急ぐ人もいるでしょう。途中で乗り合わせた誰かと残りの旅を共にすることを誓っても、どこかで喧嘩別れしてまた1人になることもあります。

誰もが列車に乗り込む時点では「最良の選択」をしたと信じています。目的地に行かない列車に乗るのは、学校をサボった学生か、迷子ぐらいなもの。目指す場所が最良かどうかは遠すぎてよくわからなくても、「今この列車に乗る」ということは、1人1人の意思です。乗客の数だけ旅があり、人生があり、2つとして同じものはありません。

私の人生は鈍行の旅です。先を急がず人と比べず、良くも悪くも現状を受け入れながら進む方です。受け身な反面、なにかのきっかけでガラリと方向を変えることもあります。その転換は周囲を驚かせることもありますが、ゆっくりじっくり一時期の旅を終えた後なら、閃いた時に迷いません。それが台湾留学だったり、金融界への転身だったり、NZ移住だったり・・・・・

2003年3月、当時暮らしていた香港では「謎の肺炎」と言われた新型肺炎SARS(サーズ)が蔓延し、死者も出ていました。報道はSARS一色で、活気に満ちた街が重苦しい空気に包まれていました。学校は次々と休校に追い込まれ、外国人の間では仕事がある夫だけを残し、妻と子どもは一時帰国するケースが増えていました。私と夫にとり一番の気掛かりは、当時9歳と6歳だった子どもたちでした。外出は人と乗り合わせないタクシーか通気のいい路面電車を利用し、便利な地下鉄やバスには乗らないようにしていました。

しかし、そんな微々たる自衛策にも限界を感じ、子どもたちの学校が休校したのを機に、とうとう私は子どもを連れ日本へ一時退避することにしました。状況から判断して1、2週間では戻れないでしょう。1、2ヵ月となったら私の有給休暇などあっと言う間に使い切ってしまいます。仕事の内容から考えて、無給休暇で何ヶ月も空席にする訳にもいきませんでした。
「このまま失職するかもしれない。」
覚悟の上でした。(この時のことは当時のメルマガ「3月26日」でどうぞ)

「日本に帰る」と告げた時の周囲の反応は、「良かったわね!」というのが大半で、少数ながら「あなたまで逃げ出す気?」という批判的なものもありました。
「どこにも行くところがないから、ここでがんばるわ。」
と微笑みながら送り出してくれた香港人もいれば、
「これぐらいのことで世話になった香港を見捨てるなんて。」
と、顔を曇らす日本人もいました。

(「見捨てるなんてとんでもない!」という気持ちだったのですが・・・・       写真は2006年に初めてNZから「里帰り」したときのもの→)


あの時、頭の中には大きなターミナル駅がありました。どの列車に乗ってどこに行くのか、乗らずに留まるのか。SARSという前代未聞の事態を前に、誰もが「最良の選択」をしているはずでした。だからこそ、できるだけ心をニュートラルにして、各人の事情や意見を尊重したいと思いました。出るもよし、残るもよし。出たいけれど出られない人には、心から健康と心の平安を祈りました。子どもがいなければ私は間違いなく居残っていました。

先日、7月の一時帰国を知らせるために、久しぶりに東京の友人にメールを送ったら、
「驚くだろうけど私と子供達は今沖縄に住んでいます。」
という返事が来て本当に驚きました。そしてSARSのことを思い出したのです。彼女は仕事のある夫を東京に残し、放射線を逃れるため縁もゆかりもない場所への避難を決め、子どもとともに予想外の列車に飛び乗ったのでした。

友人は原発の専門家でも関係者でもない一介の専業主婦ですが、彼女なりにいろいろ調べ上げ、日本ではなくEU(欧州連合)の基準に照らして決心したようです。その判断が正しいかどうかは今のところ知る由もありませんが、一家の行動力、決断力、洞察力、機動力、それを可能にする団結力と財力に、一友人として感動しました。「リスクを取る」ということは、大局と逆行することであることも思い起こされました。彼らの行動がいつの日か友人間で一生の笑い話となることを祈りつつ、沖縄行きの列車を見送った思いです。

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「マヨネーズ」
友人が沖縄行きの列車に乗ったとしたら、私は7年前にNZ行きの列車に乗りました。香港で音を立てるような中国の躍進を肌身で感じつつ、レスター・ブラウンの「誰が中国を養うのか」という問いかけに、答えが見つけられずにいました。
「自分の目が黒いうちに、息子たちが水や食料のために戦争に借り出されたら?」
という漠然とした不安への答えのひとつが、10年前にフラりと訪れ、
「ここだ!」
と感じたNZでした。
(この時のことも当時のメルマガ「100年の大計」でどうぞ)

「水・食糧・非核」は移住の根底にある大きな誘因でした。私もまたいつの日か笑い者にならんことを。

西蘭みこと 

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