「西蘭花通信」Vol.0530   生活編   〜人生のピラミッド〜              2011年4月9日

4月1日、西蘭夫婦は結婚20周年を迎えました。磁気婚式だそうで、なんとも色味も華やかさもない質実剛健な記念日(笑)。しかし、人生も後半に入ると、前半のように未来はいつも前途洋洋というわけにはいきません。子育てを始め、いろいろなことが"片付いていく"中、自分もいつかは"片付いていく"ことがリアルに感じられるようになるにつけ、20年という時間の長さ、ありがたさ、貴さを噛みしめているところです。

今までの人生で、折に触れ何度も頭を過ぎっていくイメージがあります。埃っぽい見晴るかす限り一本の草木もない無彩色な場所で、ただただ石を積んでいる自分の姿です。目に入るのは汚れて節くれだった指と黄銅色の長方形の石。視界はせいぜい30cmで、塗材を延ばしては石を置き、また塗材を延ばしては石を置き、の繰り返し。誰と言葉を交わすわけでもなく、黙々と同じ所作を続けていくのです。

周りには同じようにうずくまって石を積んでいる無数の人がいます。けれど砂埃で隔てられ、何人いるのか、どこまで積んだのか、果たして何を造っているのかもわかりません。立ち上がるのも顔を挙げるのも億劫な感じで、手と目だけが生きていて、機械のように繰り返し繰り返し石を積んでいます。

それが、ピラミッドを造る奴隷の姿の想像なのか、夢なのか、前世の記憶なのかはわかりません。ただ、今まで幾度か"思い出した"ように感じるものなのです。奴隷らしくすべてを諦めたのか、思考が停止してしまったのか、私は石を積むことを決して倦んではおらず、空白を石で埋めていくことに密かな安心さえ覚えているのです。

結婚20周年の当日は子どもができてから初めて、夫婦2人で旅行に出ました。1泊2日の短い滞在を終え、とっとと帰った翌朝未明のことでした。その日は日曜日で家の中はシーンと静まりかえっていました。隣の夫も眠っており、私も目覚めているような眠っているような、まどろみの中にいました。
 (記念に夫婦だけでコロマンデルのパウアヌイへ→)

その時です。久しぶりにあのピラミッドの建設現場が蘇ってきました。映像を見ているというよりも、自分がそこに居ると言った方が正確で、生暖かい空気の中、埃で髪がゴワゴワしているように感じました。私の目には自分の右手とつかんだ石しか見えません。いかにきちんと積むか。目分量ではあっても下の段と1つ前に置いた石を瞬時に見比べながら、手にしたずっしりと重い石を置きました。

そのとたん、「愛情」という声がどこからともなく聞こえてきて、一瞬手が止まりました。すぐに気を取り直し次の石を置くと、今度は「不信」という言葉が。手を止めずに次の石を置くと、「忍耐」。
「歓喜」
「愛惜」
「感謝」
「寂寞」
「尊敬」
「諦念」
「焦燥」・・・・・

石を置くたびにいろいろな声が耳の奥に響き、ときとして何度も同じ言葉が繰り返されました。
「愛情」
「愛情」
「愛情」
「妥協」
「愛情」・・・・・

「そうか、これが人生なのか。」
私は「声」の意味を理解しました。自分が造っているものが初めて何だかわかったのです。それはどこぞの王が眠る場所ではなく、自分が眠る場所でした。生涯をかけて石を積み、最後は自分がそこに入っていくためのものでした。それはさまざまな感情と学習で固められた堅牢なもので、飾り気はまったくありません。しかし、それこそが人生ではないでしょうか。仕事をし、歯を磨き、眠り、思い煩い、小さな幸せにホッとする、連綿と続いていく名もない毎日の積み重ね―――。

その時、初めて顔を挙げしっかりと周囲を見渡しました。無数の人たちは無数のピラミッドを造っていました。多くの人が1人で、ときどき2人で積んでいる人もいます。その人たちは夫婦なのでしょう。お互いすべてを委ねあった夫婦だけは1つのピラミッドを造っているようです。夫婦でも別々のピラミッドを造っている人も大勢いて、それは夫婦仲を意味しません。個々に生きるか、2人で1つになるかの選択の違いだけのようです。

中には未完のまま放置されたピラミッドもあります。噴火口のように頭が開いたままで、積んでいる人の姿が見えません。石を積むのを止めてしまった人、つまり寿命を全うせずに自分で命を絶ってしまった人のようです。自分の眠る場所を造り終えなかった彼らがどこに行ってしまったのかはわかりません。

私のピラミッドはもちろん未完です。あとどれぐらい石を積めばいいのかわかりませんが、「あちらの世界」の話である以上、時間は川のように一方向に流れているわけではないので、その長さも、前後も簡単にひっくり返ってしまうのでしょう。ただ、出来上がっていないということだけがわかりました。

もう1つわかったことがあります。私はどうやらこの20年間、自分1人のピラミッドを造ってきたようなのです。結婚して夫婦になっても、行動力や経済力を含め「個」であることにこだわり、何かあってもとっとと離婚できる状況がフェアでピュアな夫婦関係と、その延長にある家庭を築けるものと信じてきました。現実的にも、私はNZで骨を埋める覚悟ですが、夫は東京にある実家の墓石の下で眠りたがっています。しかし、ここにきて夫婦で1つのピラミッドを造る気になっている自分に気付きました。

「じゃ、今まで造った別々の分はどうなるの?」
という話ですが、これもまた「あちらの世界」の話、簡単に書き換えられてしまうような気がします。まどろみの中、これからの20年間は夫婦で力を合わせ、1つのものを造っていくという気構えになっていました。仕事をし、歯を磨き、眠り、思い煩い、小さな幸せにホッとする毎日は変わらないにしても、これからは1+1=2から、1+1=1に変わっていくように感じました。

若いときは欲張りですから、1+1=3か4になるように生きたいと願うものです。でも経験を積み、自分の器の大きさがわかってくると欲は消えていきます。40歳にして惑わなくなってから早9年。来年には天命を知る50ですから、1+1=1でありたいと考え始めるのも、不思議ではないのでしょう。倦まずに石を積み続けたことは無駄ではないのだと思います。

そんな夫も最近は、
「日本とNZと分骨にしようかな?どう思う?」
と言い出したりしています。
「頭が日本で身体だけNZにあっても、痛そうねぇ。」
とニヤニヤする私。
「どうしたいのかちゃんと子どもたちに頼んでおかないと、"面倒くさいから、どっちかにまとめちゃえ!"ってことになるわよ。」

20年後には私は69歳。夫はちょうどNZの年金受給年齢である65歳。その時に65歳から年金がもらえる可能性は、NZの財政状況を考えるとゼロとしても(笑)、まぁ、人生一丁上がりな年齢でしょう。きっと孫もいるでしょうから、達者なジジババになっていたいものです。それ以降の人生は「とことん遊び倒そう!」と企みつつ、まずは目先の20年を2人で力を合わせ、しっかりと積み上げていこうと思っています。

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「マヨネーズ」
メルマガはいつも字数を決めて書いているのですが、今回はさすがにオーバーして語ってしまいました(笑) どうも前世で奴隷をやっていたことがありそうです。

そういえば20年前の入籍当日の話も8年前にメルマガにしていました。よろしければコチラからどうぞ。

西蘭みこと 

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