「西蘭花通信」Vol.0496  生活編  〜ダブルスタンダード〜                 2009年11月21日

マイケル・ジャクソンの映画「ディス・イズ・イット」を観てきました。80年代を生きた者として、間違いなくあの時代の一部だったマイケルの最期の姿を観ておきたいと思いました。特にファンというわけではないので、予備知識はゼロ。亡くなってからの追悼番組で、あんなに穏やかに上品にか細い声で話す人だと知り、驚いたくらいです。

ご覧になった方も多いかと思いますが、映画は今や幻となってしまったロンドンでのコンサートのオーディション風景から始まり、準備の様子をスタッフの目線で伝えていきます。世界中から集まった精鋭たちがバックダンサーとしての栄光を手にし、涙ながらに感激を語るシーン。鍛え抜かれた美しい肉体に宿る無垢な喜びが印象的でした。

徐々に下準備が整いマイケルが登場し、延々と続くリハーサル・シーン。私のような素人目にはまったく衰えが感じられない彼のステップと独特の身のこなし。どんなに踊ってもぶれない歌声。信じがたい光景がこれでもかこれでもかと続きます。歌手やダンサーたちがどんなに難易度の高い技で魅せても、マイケルが霞むことは決してないどころか、どんなにあがいても鍛えても彼の高みには到達し得ないことを思い知らされる思いでした。

何度か監督や各部門の責任者とマイケルとの打ち合わせ光景が映し出されます。マイケルは終始穏やかで、決して押し付けることなく静かに自身の希望を伝えます。そのひと言ひと言を聞き漏らすまいと真剣に耳を傾け、理解するやすぐに指示を飛ばし、ひとつひとつの意向をできる限り実現しようと懸命に努力する製作陣。次第に豪華絢爛で巨大な船にも似たコンサート会場(実際は実物を完全に模したスタジオ)の全容が浮かび上がります。

「マイケルは神だったんだな。」
映画が始まってごく最初の方でそう思いました。彼には私たちが見えて聞こえるもの以外の『なにか』がはっきりとわかり、普通の人にはそれが感じられないこともよくわかっているようでした。もしも人類が聴覚というものを持っていなかったとしたら、「聞こえる」人は狂人か神のどちらかで、往々にして前者として扱われていたことでしょう。

「ほら見て!」
「わぁ、ほんとだ!」
「聞こえる?」
「うん。聞こえる。」
という何気ない同意が得られない者の孤独―――。

「ねぇ、わかる?」
「・・・・・・・・」
「感じる?」
「・・・・・・・・」

わかったふりをされる空しさ、彼だけにわかるものを訝る猜疑の目や嫉妬。果ては奇人扱いし、彼が終始嫌っていた蔑称「ワッコ・ジャッコ」(Wacko Jacko 変人ジャクソン)と片付けてしまった世間。子どもたち3人にお面を被せて育てたり、巨額を投じて建造した「ネバーランド」で独りで遊ぶ姿は確かに理解しがたいものがありました。けれど映画を通じて、私たちには見えない世界が彼には見えていたのだと、信じることができました。

ダブルスタンダード―――。
普通の人が生きる五感の世界とマイケルのように特殊な能力を持った人が感じられるそれ以上の世界。彼はふたつの世界を行き来しながら、時に楽しみ時に苦しみ、天にも届く賞賛と地獄のようなプライバシーの侵害から生涯逃れることができなかったのだと思います。その極端の中で心身の健全さを保つことは容易なことではなかったでしょう。
「普通の子ども時代に憧れていた」
という彼の言葉の意味を改めて思いました。

映画の中で何度も出て来るマイケルが自分のイメージを伝えるシーン。それは彼の頭の中で創り出されたクリエーションではなく、向こう側の世界をこちら側の五感と言葉に翻訳したプレゼンテーションのようでした。サウンドの大きさを「耳の中に拳骨が入ってくる感じ」と表現しているのにも、そんな「翻訳」を感じました。監督が聞き返す「音を小さくしましょうか?」というストレートな表現に、両者のスタンダードの違いを感じました。

しかし、マイケルに見えて、聞こえて、感じられるビジョンを、全身の感覚を研ぎ澄ませて理解しようとするスタッフたちの真摯な努力は感動的でした。見えないもの、聞こえないもの、感じられないものを信じる勇気。彼への絶対的な信頼は愛そのものでした。それに対し深く大らかな博愛で応えるマイケル。彼の言葉の端々に「プラネット」「ユニバース」「アース」という単語が散りばめられ、彼の感じている向こう側の世界の大きさが思い起こされました。

ステージにかかわるすべての人が彼の導きに身を委ね、石にかじりついてでも彼の示す高みを目指し、才能と情熱が火柱を上げながらついにステージは完成し、前人未到のスケールとなるコンサートは当日を迎えるばかりでした。たくさんの奇跡を載せた船は最初にして最後の航海に出るところでした。そして訪れたマイケルの死。数々の天才が未完の作品を残していったように、マイケルもまた用意周到のステージを残して逝ってしまいました。

ふたつの世界を確実につないでいたのは「LOVE−愛」だったのではないかと思います。マイケルは何度もこの言葉を繰り返していましたが、ダブルスタンダードの狭間で逡巡していた彼自身も愛に救われ、すべての活動を通じ生涯をかけて愛を説いていたのではないかと感じました。

心からご冥福をお祈りします。

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「マヨネーズ」
マイケルの最期まで一緒だったコンサートのメンバーは、「マイケルズ・チルドレン」として彼が説き続けた愛を、歌で音楽でダンスで伝えていくミッションを与えられた人たちだったのではないかな、と思いました。その中のひとりに日系人歌手ジュディス・ヒルさんがいるのが、なんとなく嬉しく感じられます。

西蘭みこと

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