「西蘭花通信」Vol.0471  生活編  〜サンクス&グッドラック〜           2008年11月26日

1997年12月初旬のある土曜日。私は当時3歳だった長男・温の手を引いて、香港の金融街セントラルの中心を心持ち足早に歩いていました。肩から提げたバッグにはたった今、弁護士から受け取ってきた私と夫宛てに振り出した小切手が入っています。記名式なので、例え誰かがその小切手を銀行に持ち込んでみたところで換金することはできません。それでも私はいつもよりしっかりとバッグを脇に挟み、柄を手で持っていました。

大通りを渡ると、目の前のガラスの自動ドアが開き、私たちは誘われるように中へ入っていきました。 「いらっしゃいませ。ご用件を承ります。」
すぐに英語で声がかかり、
「口座を開きに来たんですが・・・」
と言いつつ小切手を見せると、カウンターの内側にいた行員がすぐに出てきて、
「では、こちらへ。」
と奥に案内してくれました。

通された場所は店頭の雰囲気とはガラリと違っていました。対応してくれた行員の制服も座った椅子もお互いが挟むデスクも、普段の銀行で見慣れたものではありません。隣にちょこんと座った温には、すぐにガラス瓶に入った色とりどりのキャンディーが差し出されました。

私は、家を売却して残金を受け取ったのでそれを振り込む口座を開きたいこと、今日は夫が不在なので私の個人名義で口座を開き、後日2人で共同口座を開きたいこと、資金のほとんどを米ドルに換えたいことなど、こちらの用件を簡単に伝え、身分を証明する香港のIDカードとパスポート、数千万円相当の金額が打ち込まれた小切手を取り出しました。中央の女性が中心になって話を聞き、その両脇には2人の女性が控えており、話がまとまるや2人は必要書類のコピーやらカードの用意やらで、すぐに左右に散っていきました。

デスクに残った女性は世間話をしながらも、入金された資金の運用に話を向けました。流れとしては当然でした。私は、詳しい話は共同口座を開設するときに夫と一緒に聞きたいこと、自分も金融機関に勤務しているのでそれなりに相場を見ていることを伝え、とりあえず1、2週間の短期定期預金にしておくよう依頼しました。彼女は私の言葉にあっさりと話題を引っ込めました。会話も手続きも、すべてが流れるように進んでいきました。

すぐに新規口座開設のギフトとして、ホテルの食事券だったか、写真館での家族写真の無料撮影券だったか、その両方だったか、その手のものが続々とデスクに届き、他にもビザ、マスター、ダイナースの入会金・年会費無料のクレジットカードの申込書も並びました。これに「投資も」という話にでもなれば、さらにパンフレットだの申込書だのが並んだことでしょう。その日のところはそれで十分でした。
用件を済ませると全員が立ち上がりにこやかに挨拶を交わし、温にまで手を振ってもらって私たちは店を出ました。振り返れば青字に白抜きの控えめな銀行名――シティバンク。私たちは今から丸11年前に初めて何千万円もの現金を手にし、シティーゴールドのメンバーになりました。プレミア口座、プライベートバンキング、個室での対応、優遇金利、無料のクレジットカード、多通貨口座、無料の空港ラウンジ・サービス、外国でのATMサービスなどなど、普通の銀行しか知らなかった身にはすべてが初めての経験でした。

当時の香港はアジア全域を襲った通貨危機に加え、中国返還を囃した局地バブルの崩壊が重なり、株価が暴落し金利が急騰していました。血のにおいを嗅ぎつけたヘッジファンドが香港ドルのペッグ
(香港ドルは一定額の米ドルの裏づけの基に発行されている通貨で実質的な固定相場)を外し、他のアジア通貨同様に切り下げに追い込もうとあの手この手で仕掛けていた頃でした。まさに、世界的な金融危機と北京五輪による局地バブルの崩壊が重なった今の状況を彷彿とさせる状況でした。

私たちはその2ヶ月前、3年前に買ったマンションを次男・善が生まれて手狭になったこともあって売却していました。それなりに狙っていたとはいえ、結果的に想定していた以上の高値で話がまとまりました。すぐに30%の頭金が支払われましたが、残金が支払われるのは2ヶ月後でした。

その間に金融・不動産市場は急変し、不動産を購入して頭金を支払っておきながら契約を反故にする取引が続出していました。
(不動産価格が30%以上下落してしまい、頭金を捨てても残金を払わない方が得策になっていたため) 買い手から小切手を受け取っても、正直な話、それを換金し自分の口座の残金として打ち出されてくるまではなんとなく心許なかったのです。それぐらい世の中は疑心暗鬼になっていました。

「これでいつリストラされても大丈夫。住宅ローンさえなければなんとかなるでしょう。」
当時、株式のディーリングルームにいた私はとっくに首を洗っていました。勤務していた投資銀行では通貨危機による損失が資本金を食い潰し始めており、香港からの撤退は時間の問題でした。こんな状況も今の世の中に酷似しています。

「マクドナルド行こっか?」
ホッとするや急に視界が広がり、それまでずっと大人しくしていた温がふと不憫になりました。銀行など3歳の子どもにとり楽しい場所であろうはずがありません。
「大金も入ったことだし、ミルクシェークぐらいご馳走するよ。」
と思いつつ、喜ぶ彼の手を引いて近くの店に向かいました。 (つづく)

(香港のセントラル。この圧迫感がなんとも香港。14年も闊歩していた愛する街です→)

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「マヨネーズ」
日本のバブルを外国からでも日本人として見聞し、アジア通貨危機はそのど真ん中でライブ体験しました。もっと遡れば1987年のブラックマンデーのときには顧客だった香港先物取引所の担当者が雲隠れというのもありました。そして今度は超ド級の世界同時不況だか世界恐慌だか(そのうち名称が決まるんでしょう)。人生山あり谷あり。

西蘭みこと

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