「西蘭花通信」Vol.0448  生活編  〜育って老いて生きて〜      2007年10月11日

確か今年の3月のことだったと思います。うららかな夏の終わりの昼下がりだったように記憶しています。夫と2人、明るく陽の差す部屋にいた時、私はふと、
「今が人生で一番幸せな時だったらどうしよう。」
と言ったのです。いつも突然降ってくる脈絡のない私の言葉に慣れっこの夫は、
「なんで?」
と軽く相手をしてくれました。

「だって日本の親も元気、家族もみんな元気で猫まで元気。生活もなんとかつつがなくやってるじゃない?これ以上の幸せってある?これからは、何かが欠けていくんじゃないかしら?」
「そんなことないって。ずっとこのままだよ。」
他愛もない会話でしたが、今でもよく覚えています。ただ、なぜそんなことを思いついたのか、口にした本人ですらわかりません。

あの時点で"欠けていく可能性"を心配しなくてはならない筆頭は、日本の年老いた親か飼い猫で糖尿病患いのチャッチャでした。親たちは特に命にかかわる病があるわけではありませんが全員が70代、何が起きるか予見はできません。チャッチャは1日2回インシュリンを打っていますが、年とともにコントロールが難しくなり時々ひどい低血糖を起こします。私たちの就寝中や外出時にそれが起き、命にかかわる事態になったことも何度かあったので、元気そうな様子とは裏腹に最大の心配の種とも言えました。

私の予感は図らずも的中してしまいました。4月13日、もう1匹の飼い猫ピッピにガンが再発しているのを発見しました。喉元のコリコリした感触が指先に伝わった瞬間、私は全身総毛立っていました。丸3年前に克服したはずのあの恐ろしいガンがいつの間にか戻っていたのです。猫の3年は人間の12年。ガンの再発を警戒しなければならない年数が人間と同じ5年だとすれば、とっくに完治していたはずでした。私の中でピッピは当面の"欠けていく可能性"に入っていませんでした。

その後、ピッピの容態は徐々に悪化し、発見から5ヵ月後の9月18日に永眠しました。3月の予感からたった半年後のことでした。ささやかでも無欠に思えた幸せに、大きくヒビが入りました。

(ピッピの闘病に関してはまた改めて記したいと思いますが、ピッピのブログ、シロ猫ピッピの「おいら物語」でも綴っています)

(毛づくろいが自分でできなくなってからは、チャッチャが盛んに舐めてあげていました。ピッピが亡くなる5日前の2匹→)




それまでの人生で私はこれほど大切なものを失ったことがありませんでした。流産した時もからだが軋んで痛むほど泣き通しましたが、15年連れ添ったピッピの死は一度も目にしなかった幻のわが子以上の痛みでした。

何を見ても、何をしていてもピッピを思い出し涙が止まりませんでした。哀しさ、悔しさ、寂しさ、恐れ、痛み、辛さ、諦め、思い出、感謝・・・いろいろなものが涙になって留めなく溢れてきました。

その中でふと、
「これから何度もこういうことが起きる。」
という現実に気付きました。欠けていくのはピッピに留まりません。いずれ時間の問題で親やチャッチャもピッピを追っていくことでしょう。そう気付いた時、何日も俯(うつむ)いて泣き続けた顔を気持ち上げることができました。ピッピは終わりではなく、始まりだったのです。

「これからの人生は足し算ではなく引き算なのかもしれない――。」
夫と出会い、猫を飼い始め、子どもができ、住み込みのお手伝いさんも来てと、これまではずっと増えていく一方でした。移住を機にかけがえのないお手伝いさんを失いはしたものの、私たちは念願のニュージーランド暮らしを手に入れました。もちろん、彼女との友情も続いており、喪失ではありませんでした。しかし、ピッピ以降は本当の引き算です。

「これが老いなのか――。」
私は人生で初めて、老いを実感しました。子どもにかけっこで負けても、髪に白いものを見つけても、それは私にとっては老いではありませんでした。それらは喜ぶべき子どもの成長であり、そのための私の努力の結果に思えたのです。年齢のせいで諦めたことは一つもなく、ミニスカートもはけば徹夜もします。年を重ねただけでは老いを実感することはできませんでした。それは子どもの時に成長を実感できなかったのと同じで、あの頃は小さくなって着られなくなった服が奇妙に見えるばかりでした。

どれだけ涙を流しても失ったものは戻らないこと。
なにがあっても毎朝、陽は昇ること。
人生という時間は限られていること。
それがいつ終わるのかは誰にもわからないこと。
そして、時がすべてを癒すこと――

とっくに知っているつもりでいたことを、今回初めて頭の中の知識から心の中の刻印に代え、2度と消えることがないほどに刻みました。

大切なものを失い、幸せが欠けても、乗り越え、生きていかなくてはならない――これが老いなのでしょう。よく、「人には乗り越えられない困難は与えられない」と言われます。困難は乗り越えてそこから学ぶために与えられるのであって、その人を苦しめるために与えられるわけではない、というのです。だとしたら、老いは引き算の痛みを乗り越えられるようになった証なのかもしれません。

何があっても生きて、生き延びて、逝ってしまった命を弔い、いつか逝く命を見送り、その時がきたら自分も誰かに看取ってもらう――この命の輪が初めてはっきりと見えてきました。人生は時間。このことを今回しかと悟りました。だとしたら無駄にできる時間はまったくありません。大切に慈しんで日々生きていくばかりです。

ピッピ、深い気付きをありがとう。
ピッピのようにしっかり生きてみるよ。

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「マヨネーズ」
最後に更新した8月初旬以降、ピッピが完全に食べられなくなり、1、2時間おきの流動食が始まり、生活が一変してしまいました。ピッピを失った今、まだまだ気持ちの半分がどこかへ行ったままですが、少しずつ元の生活に戻そうとし始めたところです。メルマガの再開もその一環です。長い間お待たせしてしまい大変申し訳ありませんでした。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

西蘭みこと

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