「西蘭花通信」Vol.0431  生活編  〜12年目の試練W〜            2007年2月1日

(これは連載です。これまでの話は
「12年目の試練」
「12年目の試練U」

「12年目の試練V」

からどうぞ。)


香港の風水師の教えに従えば、12年で完結する干支の最終年は試練の年。私がこれまでに経験した3回の寅年は、確かにどれも辛く、厳しい年でした。その分、自分と向き合い、考え、学び、試練を乗り切った年でもありました。36歳で迎えた3回目は最悪だったばかりか、今までの人生でも大凶と言い切れる年でした。その分、得たものも多く、一生忘れえぬ年になりました。あまり語ったことがなかったこの年について振り返ってみましょう。

(年女の1回目は日本、2回目はフランス、3回目は香港で過ごしました。4回目は違いなくニュージーランドでしょう。36歳のとき働いていたオフィス街。右のビルから左のビルへ転職しました。狭い香港ではありがちな“ご近所転職”。前の同僚ともしょっちゅう会え、便利だったりします^^;→)

36歳:
35歳の終わりに近い97年10月、アジア金融危機を象徴するかのように香港株が大暴落。金利が一斉に跳ね上がり、血のにおいを嗅ぎつけたヘッジファンドの非業なまでの攻撃と、彼らの尻に乗った世界中の資金が「アジア売り」に出ていました。11月、四大証券の一角だった山一證券倒産。ディーリングルームで日々アジア株の売買をしていた私は来るべきリストラを覚悟し、10月にはマイホームを売却していました。
「ローンさえなければなんとかなるだろう。」
金融業界に身を置く以上、世界の資金フローと自分の生活は常にしっかりと結びついていました。

寅年となった98年は暗い幕開けでした。信用不安が拡大し、銀行が貸し渋りどころか、資金回収に本腰を入れ始め、日本でも「貸し剥がし」というゾッとするような言葉が市民権を得ていた頃だと思います。香港を始めとするアジアの状況はさらに深刻でした。ヘッジファンドと各国中央銀行との為替市場での死闘の果て、収拾がつかないほど混乱を極めてしまったタイや韓国は、IMF(国際通貨基金)の管理下に入っていました。

2月に36歳の誕生日を迎え、3月には所属していた部の閉鎖に伴い失職しました。個人的には半年以上前から「この日」を覚悟していたせいか、解雇補償金が記載された通知を受け取った時はなんだかホッとしていました。
「温(当時4歳)と水彩画を習いに行こう。」
と、画材セットを買って帰った覚えがあります。しかし、その2週間後、あっさりと次の就職先が決まりました。ずっと希望していたアジア株の調査部の仕事です。「渡りに舟」とはまさにこのことで、
「年女も捨てたもんじゃない。」
と高をくくったほどでした。

せっかくの機会だったので4月の1ヶ月を日本で過ごし、5月から新しい職場に出社しました。上司や同僚にも恵まれ、なかなかの滑り出しでした。ところが、入社2週間目で手にした新聞の一面は、自分の会社の合併をデカデカと報じていました。海外拠点の1つである香港現地法人は閉鎖の対象となり、半年後には再び失職することになりました。
「やれやれ、また職探しか。」
と思いながらも、リストラも2回目となると腰が据わるもので、
「この半年をとことん楽しもう!」
と、気持ちを切り替え、楽しく、激しく働きました。社内にもそんな雰囲気が満ち満ちていて、みんなで本当にいい仕事をしました。

そんな頃、ふと持ち上がったのが金銭問題でした。とある香港に進出していた日系企業の資金繰りが怪しくなり、訳あって私たちがわずかながらも資金を貸すことになりました。夫から話があった時、私は即座に、
「絶対反対。今の日本と香港の状況から考えてお金をドブに捨てるも同然。寄付したほうがましだわ。」
と拒否しました。 しかし、夫の仕事上の関係などいろいろなしがらみや、前年にマイホームを高値で売っていたため、たまたま資金的に余裕があったこともあり、とうとう何度目かの説得で夫に折れることにしました。
「このお金は絶対捨てない。」
と、虚しいながらも心に誓ったものです。

部分返済があったり、追加で貸したりで半年が過ぎようとしていたころ、その企業の態度が硬化してきました。
「いよいよ資金繰りが苦しいんだろうな。」
金融関係者として冷静に判断する一方、借用書1枚の関係に不安を募らせてもいました。利払いどころか何の担保もなく、会社が潰れてしまえば1銭も戻りません。東京の元同僚を通じてその会社の信用状況を調べてみると、事態は最悪で、銀行が貸し剥がしを本格化していました。とても香港に資金を送ってくるどころの話ではなさそうでした。

胃が痛い毎日でしたが職場では楽しくやっており、妙なところで「仕事をしていて良かった」と思っていました。そんなある日、同僚の日本人から、
「これ西蘭さんのご主人のことじゃないか?」
と遠慮がちなメールが届き、リンクしてあったサイトに行って思わず口を押さえて絶句してしまいました。 血も凍るとは、まさにあんな状況を言うのでしょう。そこは私など行ったことも見たこともない罵詈雑言が飛び交う裏情報のページで、個人名が伏せてある以外はありとあらゆる個人情報が野放図に書き込まれていました。

同僚が指定した欄は間違いなく夫のことを書いていました。個人名こそ伏せてありましたが、当時夫が雇われの現地法人社長を勤めていた企業名は実名で出ており、「そこの社長は」ということで、
「会社のカネを使い込み」、
あろうことか、
「金融の専門家の奥さんが株で運用している」
とありました。

「地獄の裁き」というキャッチフレーズがあるサイト。黒い背景に釜茹での刑のつもりなのかオレンジの炎がおどろおどろしく描かれたレイアウト。こんな場所に根も葉もないかたちで自分たちが取り上げられること自体無念でしたが、それ以上に、とてつもない問題に巻き込まれてしまったことを悟り、言いづらいところを教えてくれた同僚に心から感謝しました。(つづく)

******************************************************************************************

「マヨネーズ」

かれこれ10年近く前の話であっても、98年のことは今でもいろいろと覚えています。やはり人生において格別な年だったようです。辛く苦しい中でも、ずっと思っていたことは、
「子どもがいて良かった。彼らに堂々と申し開きができることをしよう。」
ということでした。図らずも親になって手にした力を知った年でもありました。

西蘭みこと