「西蘭花通信」Vol.0399  生活編 〜5月31日―あれから1年〜       2006年6月1日

2005年5月31日に永住権がおりてから丸1年経ちました。さらに言えば、そのちょうど1年前、2004年5月31日にはニュージーランド移住の実現となったロングターム・ビジネス・ビザ(LTBV)を取得していたので、昨日は二重の記念日でした。ところが私たちはこのことをすっかり忘れ、のほほんといつものように過ごしてしまいました。
「これじゃ、感謝の気持ちが足りてな〜い!」
と夜になってアセアセ。自省の念をこめて、「二都物語」を再び中断して、記念すべき日を振り返ってみます。
私が自分で永住権を取得してみようと思った一番のきっかけは、2004年12月13日の永住権申請資格の緩和でした。それまでは勤め人としての雇用がない限り申請そのものができず、これには自営業者は含まれないため、私は対象外でした。しかし、申請資格の厳格化やニュージーランド・ドル高による永住権申請者の伸び悩みに苦慮していた移民局は、現状打破に向け、実際の雇用がなくても雇用の可能性が認められる場合には永住権を出す――という試験的な規制緩和を打ち出したのです。

"employability(エンプロイアビリティ)――雇用される能力、雇用適性という、とってつけたような単語に、私は移民局の手詰まり感を感じました。この言葉はその後、移民局の担当官との面接の中でも繰り返し出てきました。問われているのは「雇用される能力」であり、「実際の雇用」ではありません。申請前に移民局とも再確認しましたが、その能力さえ認められればよいということで、その後の雇用は求められませんでした。つまり、私は自営業者のまま申請ができ、取得できた場合でも自営業を続けられるというわけです。

「こんなに願ったりかなったりの条件ってあるかしら?」 
にわかには信じがたい思いでした。同時に、
「解釈次第で結果がいかようにも変わってくるこんな試みが、お役所仕事として上手くいくのかしら?」
とも感じました。それまで4年間、移民局のホームページ(HP)をくまなく読み、彼らの意向、動向をつぶさに見てきたせいか、規制緩和が世論に押された妥協の産物に思えたのです。理由はどうあれ、私には渡りに舟です。大学卒業後20年間、国や職種を跨いで海外で働いてきた経験から、謙遜を美徳とするに日本人には尊大に聞こえるかもしれませんが、私は自分のエンプロイアビリティを信じることにしました。

問題は、
「私の永住権申請が夫のLTBVにビザ上抵触しないか」
ということでした。しかし、移民局に何度掛け合っても明確な返答は得られませんでした。規制緩和直後だった上、例外的なケースだったため、彼らの対応は見事にばらばらでした。クリスマス直前で誰もが浮き足立っていたことも影響していたかもしれません(笑) ただし、誰からも「抵触する」とは言われず、
「配偶者の私に申請資格はあるか?」
という問いには、すべて「イエス」と言われました。最後は"It's up to you."(あなた次第、ご自由にどうぞ)と匙を投げられ、私は苦笑いしつつも自己責任のもとに申請するしかありませんでした。

年明け後1ヶ月経った2月3日は啓示的な1日でした。遊びに来ていた姑一行が1月30日に帰国、31日には私が参加したものでは最大となったクラフト・ショーが終わり、2月1日には温、2日には善の新学期が始まり、1ヶ月半ぶりに初めて夫婦ふたりになった日でした。突然の思いつきで、それまで寝室にしていた一番大きい部屋を仕事部屋にし、一番小さい部屋を寝室にすることにしました。なぜそんなことを思いついたのか自分でもわかりませんでしたが、夫も乗り気で、仕事を本格化させるためにも即決行となりました。

片付け半ばで夜となり、友人からのメールでその日が節分であることに気づきました。
「そうか!」
私は膝を打って立ち上がらんばかりでした。華人たちが信奉する風水では、節分とは「節の分れ目」の文字通り、新年を意味します。彼らには旧暦に準じる新年が別にありますが、干支はこの日を基準に変わります。トラ年の私にとって何かと大変と言われたサル年が終わったのです。
「そうか!今日から本当の新年、トリ年なのか。それで模様替えを思いついたって訳ね。しかもトリはトラの守り神。よし、今夜やろう!」

「今夜、永住権の申請をしてみようと思うんだけど。」
唐突に言うと、疲れきっていた夫はやや驚きながらも嬉しそうでした。
「移住してくるところまではボクがやったんだからさ、永住権はキミがやってよ。」
という最後通牒をつきつけたものの、移民局への問い合わせ以外何もしない私がやっと重い腰を上げたように見えたことでしょう。夜10時から移民局のHP経由で永住権申請の第一歩である申請意向書EOI(Expression of Interest)の記入を始め、ふたりがかりで膨大な項目すべてに記入し終わったのは翌朝2時過ぎでした。

申請は3月に入って正式に受理され、4月には担当官との面接がありました。ここからは 「21世紀のその日暮し」XYの通りです。 そして5月31日に「永住権認可」の正式通知を受け取りました。当日の様子は「ミセス・ダレカの不思議な家 その5」でどうぞ。

その7ヶ月後の2005年12月、満1年をもって試験的な規制緩和は打ち切られ、申請には雇用が義務付けられることになり、私にとっての天岩戸は再び閉まってしまいました。あのタイミングを逃したらチャンスはなかったかもしれません。

2004年は移住の年
2005年は永住の年
果たして2006年はどんな年になるのでしょう?
ご報告は1年後に。

     (月日は巡って、すべてが枯れいく美しい5月が再び終わりました→)

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「マヨネーズ」
5月31日を思い覚まさせてくれたのは、「ワークビザがおりた♪」という友人からの吉報でした。NZの財政年度は7月から新年度に入るため、5月は各省庁が総力を挙げてその年の「数字作り」に励んでいる節があります。西蘭家のビザが2回も続けてこの時期に出たのもそのせいではないかと思っており、友人にも、 「5月中に片が付くんじゃない?」 と言っていた矢先でした(笑)移民局の裏読みならお任せ^ー^?!

西蘭みこと