Vol.0377  香港編 〜ル・プラ・ナスィオナル〜               2006年2月1日

カレーを作るたびに思い出す人たちがいます。みんな若いフランス人。ほとんどが23、24の若いピカピカの男の子たち。数人、女の子も。私も彼らと同年輩の"女の子"でしたから、かれこれ20年ほど前の話です。思い出の中の彼らは若くて元気いっぱい。時間も夢もたっぷりあって輝いています。私もその中に混じって、溌剌としていたのかもしれません。みんな学業から解放され、社会人になったばかり。怖いものなしでした。

彼らはフランス語で「コーペラン」と呼ばれ、本国の徴兵制度の一環として公共機関や民間機関で約1年の研修生を務める人たちでした。当時のフランスでは通常、高校卒業後そのまま兵役に行くものでしたが、大学に進学して本人が希望し、受け入れ機関が見つかればコーペランとして働くことで兵役の代わりにすることもできました。給料も出て社会経験も積め、海外暮らしも夢ではなく、駐在員並みの高級マンションやクルマまであてがわれている人もいました。

「これで兵役中?」
と目を丸くするような好待遇でしたが、学卒者が日本とは比較にならないほど少ない国ですからは(大学進学そのものは高校卒業試験、バカロレアさえ通っていれば誰でもできます)、エリートととして自然と特別扱いが黙認されていたのでしょう。あのシステムが今どうなっているのかは知りませんが、当時私が暮らしていた香港には、たくさんのコーペランがいました。40〜50人はいたかもしれません。中には彼女や奥さんを帯同している人もいて、フランス人社会のちょっとしたコミュニティーになっていました。

私は台湾留学時代の縁で彼ら数人と知り合いでした。フランスから知人らしい知人のいない香港に向かう際、彼らだけが頼りでした。
「住むところとフランス領事館でのバイトは何とかする。」
という甘い話を鵜呑みにしてパリを経ち、当時のカイタック空港に降り立ちました。領事館所有のコーペラン用マンションの一室に転がり込み、彼らとの不思議な共同生活が始まりました。約束通り、領事館の文化部で鉱物資源の研究をしているコーペランのアシスタントとして、週数回のアルバイトも始まりました。彼の名前はリュック。記憶に間違いがなければ、日本の歴史的建造物の屋根瓦の分類をしていて、私の仕事は日本語の資料を読んでは材料や仕様の分類を手伝うことでした。

「なんでこんなことを香港でしてるんだろう?」
と思いつつも、仕事と住むところを提供され、同年輩のサンパな(感じのいい)フランス人たちと1日24時間一緒にいられるという、知らない場所で暮らし始めるには信じがたいほどラッキーな出足でした。リュックの奥さんのソフィーが何かと面倒を見てくれたものの、いざとなると中国語がわかる私が出て行く場面が多くなり、新参者はあっという間にみんなに頼りにされるようになりました。
(十人前後で仕事も食事も遊びもいつも一緒という部活状態。休日にはよく繰り出したスタンレーマーケット→)

そんなある日、誰かに、
「日本の国民的料理、"日本料理だったらまさにこの一皿!"というのはどんな料理?」
と聞かれました。
「カレーよ。」
と答えると、
「カレー?あのインド料理の?」
「天ぷら」「寿司」などの答えを期待していたみんなは大いに驚いていましたが、私は海外暮らしを通じて、
「日本の代表料理はカレー」
と確信していました。

「日本のカレーはインドカレーと違ってマイルドなの。子どもからお年寄りまで誰でも食べられて、カレーを嫌いな人ってちょっと思い浮かばないわ。子どもは誰でも大好きよ。 肉、野菜、ご飯がセットになった完全食で、お鍋一つあればキャンプ場でも作れる簡単さ。ご飯にもパンにも麺にも合って、保存ができる素晴らしい料理よ。食べてみる?」
という経緯で、私がみんなに 「ル・キュリ・ジャポネ」(日本のカレー) をご馳走することになりました。

領事館のマンションはお互い近かったので、当日は10人近くが集りました。彼らは狭いテーブルにギューギュー並び、ナイフとフォークではなくスプーンで食べるというのも物珍しく、首からナプキンを提げワーワー騒ぎつつ、今か今かと待っていました。私は手伝ってくれるソフィー以外、キッチンへの立ち入りを禁じました。腹を空かせた彼らは、もう少しで吼え出しそうになるところをしょーもないジョークで誤魔化し、私はそれを聞いて大笑いしながら、バラバラの大きさの皿にカレーをよそっていきました。

"Voila. Bon appetit !"(ヴワラ、ボナペティ!はい、どうぞ。召し上がれ!)
私の一言に、まるで早食い競争のようにがっつく彼ら。
「ちょっと、ちょっとぉ、フランス人っていうのはエレゴン(エレガント)じゃなかったのぉ?」
とちゃちゃを入れたくなる見事な食べっぷり。お皿の黄色い部分は見る見る白く、空になっていきました。
「セ・ボン!」
「セ・シュペール!」
「セ・トレ・ビエン!」
と、カレーごときで雨あられの賞賛を受け、私はその夜のスター・シェフでした。

以来、領事館に新しいコーペランが来た時の最初の晩は、日本の「ル・プラ・ナスィオナル」(国民料理)という仰々しい枕言葉がついた「みことのカレー」でもてなすのがしきたりとなりました。それは私がフルタイムの仕事を見つけ、彼らのマンションを出た後もしばらく続きました。今でもカレーをつくるたびに、首からナプキンを提げ、手にしたスプーンをテーブルに立て、キッチンから漂ってくるカレーの匂いを、奪い合うようにかいでふざける、彼らの姿が目に浮かぶようです。ピカピカだった彼らは、どこかでピカピカのムッシューになっていることでしょう。

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「マヨネーズ」 今日からウェリントンに7人制ラグビーの大会を観に行きます。ニュージーランドに来てから初めての家族だけの旅行。老ネコを預けていくのが心残りですが、思い切って行くことにしました。クルマなので道中の安全とネコの無事を祈っててください。

西蘭みこと