Vol.0305 NZ編 〜ガリポリの記憶 その2〜

20世紀初頭の第一次世界大戦。ニュージーランドとオーストラリアから志願して参戦したアンザック兵("Australian and New Zealand Army Corps"の頭文字ANZACから命名)にとり、実質的な初陣となった1915年4月25日のトルコのガリポリ(ゲルボル)上陸作戦。その後の8ヶ月の戦闘で、キウイ2千700人、オージー(オーストラリア人)8千700人が命を落としました。歴史の浅い国にとり、海外での初めての悲劇。これが「アンザック・デー」の由来です。

しかし、キウイとオージーはそれ以前から大英帝国に忠誠を示すため、積極的な海外派兵を行っていました。中でも有名なのは、1899年から1902年にかけ2つの世紀を跨いで戦われた、南アフリカの第2次ボーア戦争でした。1880年代に南アフリカで金やダイヤモンドが発見されると、イギリスはその利権を巡ってオランダ系移民の末裔アフリカーナ(かつてはボーア人と呼ばれたものの、蔑称の意味あいが強く現在はアフリカーナに統一)とそれまで以上に衝突するようになり、とうとう戦争が勃発しました。

この戦争に、NZは6500人、オーストラリアは少なくとも1万6000人の志願兵を送っています。ただし、当時は両国とも依然イギリス植民地で(戦争末期の1901年にオーストラリアのみ限定自治が認められオーストラリア連邦を結成)、志願兵自身に"NZ兵"、"オーストラリア兵"という意識がどこまであったかは疑問です。現に直接イギリス軍に入隊する者も多数あり、両国から参戦した実際の人数は、これを大きく上回ると言われています。戦死者は派兵されたキウイで226人、オージーでは少なくとも600人と言われ、いずれも半数が病死でした。この戦いで戦死した下士官ジョージ・ブラッドフォードは、NZ初の海外派兵での犠牲者となりました。 

当時は両国とも植民地だったこともあり、キウイとオージーをひとくくりにしたアンザック兵という呼称はまだありませんでしたが、彼らはしばしば「騎馬ライフル銃隊」(mounted rifles)と呼ばれていたようです。オーストラリアの記述には「帝国ブッシュマン」(imperial bushman)という、帝国陸軍(imperial army)をもじったような呼び名もあります。余談ですが、この時のキウイ戦没者の名前は、他の戦争での戦没者の名前とともに「オークランド博物館」の大理石の壁に刻まれています。 (→刻まれている名前。手厚い哀悼の意を強く感じる場所です) 
この次に行った時には、ぜひジョージ・ブラッドフォードの名前を探してみましょう。

1907年にはニュージーランドにも自治が認められ、イギリスへの忠誠とともに、それなりにキウイ意識も芽生え始めていたことでしょう。軍服一つをとってもイギリス軍とは異なり、すでにシルバーファーン(銀シダ)に「NZ」と刻まれたバッジが登場しています。「レモン搾り器」という異名をとった軍帽も象徴的です。それまで当時のフェルト製の軍帽は、つばが広く頭上部分の前後にへこみが走る平凡なデザインでした。ある日、大雨の中で訓練をしていた「タラナキ・ライフル銃隊」は、帽子のへこみに水がたまってしまい難儀していました。その時、彼らを指揮していたマローン中佐が一計を案じたのです。
 
             (→出征兵士の名前を刺繍した旗。「オークランド博物館」の展示より」

彼は帽子の中央を摘みあげるようにして山を作り、前後に走っていたへこみを山の頂上から四方へ4ヶ所に走らせるよう命じたのです。そのとんがり具合と広いつばは、まさに「レモン搾り器」でした。こうして雨水が溜まるのを防ぐと同時に、山形の帽子は富士山にそっくりなタラナキ山の象徴ともなりました。(タラナキは映画「ラスト・サムライ」の撮影場所としても名を馳せました) 第一次世界大戦参戦のために志願兵が募られた際、マローン中佐はウェリントンで要職にあり、これがNZ軍の「タラナキ・スタイル」採用につながったのではないかと言われています。

第一次世界大戦が始まるまで、キウイの海外戦没者はボーア戦争が最多だったわけですから、それからたった13年しか経っていないガリポリの犠牲者は、文字通り桁違いでした。イギリスへの忠誠とキウイとしての自我。微妙な立場で直面した、かつてない犠牲。そのアイデンティティーこそが衝撃の大きさに深さを加えた、大きな要因ではなかったかと思っています。あれから一世紀近くを隔てた現在に至ってまで2万人がかの地に集い、死者を悼んでいるのです。戦闘で亡くなったアンザック兵1万1400人の2倍近い人数です。衝撃が時を越え、世代を超えて受け継がれていることは間違いありません。

キウイやオージーには毎年恒例の行事であったとしても、第二次大戦後60年経った今も"戦後処理"を巡って隣国からデモをかけられている国から来た者にとっては、映像の前に釘付けになってしまうほどの感動でした。「ガリポリは過去に封じ込められた歴史ではない。今も生き続ける記憶なのだ」と感じました。学校の制服の胸に誇らしげにポピーを差した中高校生が、古色蒼然とした曾おじいさんの勲章を縫い付けたベビー服の中で眠る赤ちゃんが、この記憶を受け継いでいくことでしょう。集まった2万人は過去最多でした。(つづく)

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「マヨネーズ」   いくら大学受験に世界史を選択したとはいえ、第一次世界大戦など「サラエボ事件」と「ベルサイユ条約」くらいしか思い出せません。今回のメルマガ執筆では別宮暖朗氏のサイト「第一次大戦」からたくさんのことを学ばせていただきました。末筆になりますが、改めてお礼を申し上げます。読み物としても大変興味深く、アンザック兵に導かれ、今さらながら第一次世界大戦の重要性を知った次第です。膨大な内容でなかなか読み終えそうにありませんが、少しずつ勉強させていただこうと思っています。今まで拝読した中では、歩兵たちの肉声が聞こえる「塹壕」が大変印象的でした。

西蘭みこと