Vol.0243 「NZ・生活編」 〜運命の河 その2〜

マウントクックからの帰り道、家らしい家も見当たらない寂しい沿道で見つけたモーテル。そこで思いもかけず、目を見張るようなフルコースを供された私たち。オーナー夫妻のジョイスとトニーは意外にもオーストラリアからの移民でした。年代を経た重厚な木目調のダイニングにジョイスの低い落ち着いた声だけが響き、いつの間にかキッチンからやってきたエプロンをしたままのトニーが、彼女の斜め後ろに寄り添うように座り、私たちはみな彼女の言葉に聞き入っていました。

「私たちはオーストラリアでレストランを経営してたの。トニーは腕のいいシェフで店は流行ってたわ。2店目を出し、ビジネスは絶好調。でも、毎日の生活があまりにも忙しくなって、次第に自分たちの暮らしを失い、お互いを見失っていったの。子どもたちとの時間もほとんどなくて、ただただ働き通しで、いったいなんのために生きているのかさえ分からなくなるほどだった。」淡々と語るジョイスの後ろで、すべてに同意するようにトニーがじっと黙っています。彼女もさぞや有能な経営者だったのでしょう。

「ある日、そんな気違いじみた生活から逃げるようにニュージーランドに旅行に来たの。そしてここを通りかかり、この家が売り出でていると知った瞬間、ここを買って越してこようと思ったの。なんでそんなことを思いついたのかわからないけれど、突然二人でそう思ったのよ。運命かな?この家も当時はボロボロで見る影もなかったんだけど、庭の広さやダイニング、すべてが一目で気に入ったわ。」

二人が精魂込めて修理し磨き上げた建物は、元診療所でした。右手のリビングに見えた場所は元待合室で、帰り際に案内されて行ってみると、フレームに入った当時の白黒写真がたくさん飾ってありました。この界隈で唯一の医療施設だったそうです。医者が去り、何年もの間空き家になっていたのかもしれませんが、二人に見出され、家自体が息を吹き返し、人を誘い込むようなたたずまいに生まれ変わっていました。当時の二人のすがるような思いが、隅々にまで宿っているようでした。

オーストラリアに戻った二人はただちに店をたたみ、それまでの生活を振り切るようにこの地に舞い戻ったそうです。「本当に何もなくて、家族で力を合わせて切り開いていかなくちゃならなかった。でも都会育ちの子どもたちは驚くほどすぐに慣れてしまい、ここでの生活を心から楽しんでるわ。雪かきだってするのよ。おかげで自分たちの生活、家族の絆を取り戻すことができたわ。いつかはここを去ってまたオーストラリアに戻る日が来るでしょうけど、もう大丈夫。元の生活に戻ることは絶対ないわ。」

語り終え、顔を上げた時の凛としたジョイスの美しさは印象的でした。大きな山を乗り越えた自信と感動がみなぎっていました。子どものいなかった当時の私には、彼女の想いがどれほど理解できたかわかりませんが、必ず母になるつもりだったこともあり、家庭、ひいては人生にかける並々ならぬ情熱だけは受け止めました。"理解"できなくてもこの午後のひと時をできるだけ"記憶"しておこうと本能的に悟ったようで、11年も前のことながら話の内容、ダイニングや待合室の情景、通りからの眺め、青を基調としたモーテルの部屋の様子などを今でも思い浮かべることができます。それが貴重な啓示を与えてくれた二人への、私にできた唯一の敬意の示し方だったのかもしれません。

今、子どもとともにこの地に暮らし、ジョイスの言わんとしていたことがはっきりと分かるようになりました。香港での暮らしが家族を見失うほど忙しかったわけでも、疲れ切っていたわけでもありませんが、「このままではいけない、何とかしなければ」という危機感はずっと持っていました。その答えが私たちにとってもNZだったのです。気付かぬうちに、私たちはジョイスとトニーの歩いた道を10数年以上隔てて、歩んだわけです。「自分たちの生活」、「家族の絆」はまさに今の私たちのための言葉です。
(←回り始めた新しい生活)

人生は、たゆたう運命に流れ流され、時には流れに飲まれ、時には流れに乗り、上手くいく時もそうでない時も、決して後戻りのできない、大きな河です。無数に流れ込む支流を抱え込みながら海へ、海へと流れ続けていくのです。しかし、常に先を見据えながらも、ふと自分たちがどこから来たのか、遠い山麓の雪解け水の一条を思い浮かべるような時もあるかもしれません。「本当に遠くまできたものだ」と思いながらも、ここまでやってきたことを喜び、誇りに思いつつ、留まることなく流れるように生きていくのです。

私は今でもジョイスとトニーの名刺を持っています。これがなかったらあの日の午後はまるで幻のようです。電話をかけることも、いつか訪ねていくこともできますが、敢えてそうすることはないでしょう。人生を取り戻し、子どもも大きくなった彼らはもうあそこにはいないと思っています。「もう大丈夫。元の生活に戻ることは絶対ないわ」という自らの言葉通り、オーストラリアに戻っても幸せに暮していることでしょう。いつまでも幸せに。授かった啓示を、私たちも生きてみます。

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「マヨネーズ」 この話は香港での最後のメルマガにしようと、長年温めていたものでしたが、いざ出発となったら「飛ぶ鳥フンだらけ」の通り、すべてを投げ打って飛び立っていくような状態でした。あれから早2ヶ月。いろいろなことが頭の中で思い描いているより2ヶ月遅れくらいで回っているという現実を、よくよく認識させられる毎日です。明後日24日で、移住満2ヶ月です。

西蘭みこと